大いなるもの 2
                               2024年3月17日 寺岡克哉


第1部 「大生命」から「大いなるもの」へ 


1章 「大いなるもの(私が求める本当の神)」の必要性
 ふつうの人間は、「誰か」に受け入れられ、認められ、愛されなければ、とてもじゃな
いけど生きて行けません。

 なぜなら人間には、
 誰かに自分を受け入れてもらいたい!
 誰かに自分を認めてもらいたい!
 誰かに自分を愛してもらいたい!
という、たいへん強い欲求があるからです。

 それは逆に、
 誰も私を受け入れてくれない!
 誰も私を認めてくれない!
 誰も私を愛してくれない!
 というように、ほんの少しでも感じてしまったら、みるみる「生きる力」を失ってしま
うことから分かります。

 この「誰か」とは、たとえば自分の親や家族、友人、恋人などの「他人(自分以外の人
間)」であったり、自分が通う学校や会社などの「組織」であったり、あるいは自分が住
んでいる周りの「世間」であったりします。
 それで、家族や恋人を失ったり、いじめに会って学校に通えなくなったり、会社をリス
トラされたり、世間からつまはじきにされたりすれば、「生きる力」を失ってしまうので
す。

 これら他人や組織は、自分を受入れ、認め、愛してくれることにより、自分に「生きる
力」を与えてくれます。つまりそれらは、「生きる拠り所」であると言えます。
 しかし、この「生きる拠り所」が、他人や組織などであっては、とても不安でたまりま
せん。なぜなら他人や組織は、いつでも自分を見捨てる恐れがあるからです。そしてまた、
愛する人が死んだり、会社が倒産するなどして、「生きる拠り所」を失う危険もあるから
です。

 ところで、「お金が生きる拠り所だ!」という人がいるかも知れません。
 しかしそれは、お金をたくさん持ち、お金をたくさん使うことによって、他人や世間か
ら認められたいのです。だからこれは、他人や世間を「生きる拠り所」にしているのと同
じです。
 その証拠に、たとえば独房に死ぬまで監禁されて、他人と会うことも、お金を使うこと
も、永遠にできなくなったとします。もしもそうなれば、たとえ何百億円もの金を持って
いても、お金など「生きる拠り所」にならないことから分かります。

 現代社会では、たいへん多くの人々が、生きることに不安を感じ、生きる意欲を失いか
けています。それは、絶対で確実な「生きる拠り所」を、失ってしまったからではないで
しょうか。
 ところで昔から、そのような絶対で確実な「生きるより所」として、「神」が存在して
いました。
 神は、私を完全に受けいれ、私の存在を根底から認め、私を無限の愛で包んでくれます。
そして神は、絶対に私を見捨てませんし、神は永遠不滅だから、絶対に失うこともありま
せん。
 これ以上に絶対で確実な「生きる拠り所」は、ほかに存在しないでしょう。

 現代人の多くが抱えている、
 生きることへの、漠然とした恐れや不安。
 孤独。
 無気力。
 理由の分からないイライラやムカツキ。
 そして、
 弱い者に対する暴力、虐待、いじめ。
 たいした理由もなく行なわれる殺人。
 麻薬やドラッグ。
 不倫や援助交際。
 自傷行為や自殺・・・

 これら「現代人の心の闇」にたいして、その原因を根本まで突きつめれば、それはすべ
て「神の喪失」に行きつくのではないでしょうか。つまり自分が、完全に受け入れられ、
根底から認められ、無限の愛に抱かれていないから、「心の闇」が生じるのだと思います。

 現代社会では、人間にとって根本的に大切なものが、スッポリと欠落してしまったよう
に思えてなりません。もうそろそろ現代人も、「神の必要性」を素直に認めるべきではな
いでしょうか。
 しかしながら、「神」は見ることも触ることも出来ません。だから「神を信じなさい!」
といきなり言われても、なかなか信じられないのは当然でしょう。
 そしてまた、神を金儲けの道具にしたり、テロや戦争をあおりたてる道具にする人間も、
まったく後を絶ちません。だから今日では、「神はうさん臭くて危険なもの」になってし
まいました。

 以上の理由から、現代社会では、うさん臭くて危険な「偽物の神」ではなく、安心して
信頼のできる「本当の神」、つまり「大いなるもの」が必要になって来たと言えます。
 しかしながら、私も最初は神が信用できず、心の底から神を拒絶していました。そのた
め、まず「大いなるもの」の前に、神の概念を排除した「大生命」というものを考えたの
です。

 それでは以下、大生命の説明をして行きましょう。


2章 大生命
 大生命とは、一言でいうと、「地球のすべての生きものが一つにつながった、一つの大
きな生命」です。
 細菌、プランクトン、昆虫、植物、動物、人間・・・
 これら、地球のすべての生きものは一つにつながり、お互いに命をささえ合って生きて
います。つまり、地球の生命全体で、「一つの生命維持システム」を作っているのです。
そして、この生命維持システムは、あたかも「一つの生命」のように働いています。それ
が「大生命」です。

 たとえば植物は、二酸化炭素を吸って酸素をだします。その逆に動物は、酸素を吸って
二酸化炭素をだします。そして動物のだした二酸化炭素は、ふたたび植物に使われます。
このように植物と動物は一つにつながり、お互いに命をささえ合っています。
 だから、私たちがいつも無意識に行う「呼吸」を考えてみても、南米アマゾンのジャン
グルと、日本にいる私たちはつながっているのです。なぜなら、アマゾンの森林が作った
酸素も、今ここで私たちは吸っているからです。
 そしてまた、海と陸の生きものも一つにつながっています。海の植物がつくった酸素は、
空気中に出ていき、陸の動物に使われます。また、陸の動物がだした二酸化炭素は、海水
に溶けこんで、海の植物に使われます。だから、海と陸の生きものも一つにつながってい
るのです。

 また、地球の生きものは、食うか食われるかという「食物連鎖」の関係でも、一つにつ
ながっています。
 植物は草食動物に食べられ、草食動物は肉食動物に食べられます。そして動物の糞や死
骸は、虫や細菌によって分解され、植物の肥料になります。
 植物といえども、自分たちだけでは生きて行けません。昆虫が花粉を運んだり、動物が
種を運んだり、虫や微生物が、落ち葉や死骸を分解しなければ、植物も生きられないので
す。
 さらには、このようにして作られた有機物(栄養素)の一部は川から海に運ばれ、海の
生きものに使われます。だから「食物連鎖」という関係でも、海と陸の生きものはつながっ
ているのです。

 この地球に棲む生きものは、どんな生きものであろうとも、単独では絶対に生きて行け
ません。すべての生きものが一つにつながり、一つの生命維持システム、つまり「一つの
大きな生命」を作っているから生きられるのです。そして、その一つの大きな生命が「大
生命」なのです。

 しかし本当に、大生命などという「一つの生命」が存在するのでしょうか?

 それは例えば、「人間」と「細胞」の関係を見れば、納得できるかと思います。
 人間の体は、およそ37兆2000億個という、とてもたくさんの細胞からできていま
す。しかし実は、これらの細胞は「独立した生命体」なのです。というのは、培養実験で
酸素や栄養などの環境を人工的にととのえれば、細胞は1個だけでも生きられるからです。
 しかし自然の環境では、細胞は単独で生きることが出来ません。自然環境の中では、す
べての細胞が一つにつながり、「一個の人間」という一つの生命維持システム、つまり
「一つの生命」を作っているから、すべての細胞も生きられるのです。
 一個の人間が、37兆2000億個の生命ではなく、一つの生命だと言えるのは、まさ
に、細胞が単独では生きられないからです。

 大生命の場合も、それとまったく同じように考えることができます。個々の生きものは、
単独では絶対に生きられません。それは、細胞が単独で生きられないのと全く同じです。
 地球のすべての生きものが一つにつながり、「大生命」という一つの生命維持システム、
つまり「一つの生命」を作っているから、個々の生きものも生きられるのです。つまり個々
の生きものは、まさに「大生命の細胞」と言えるわけです。

 ところでまた、人間の生まれる過程をみれば、大生命が「一つの生命」であることが、
さらに納得できるかと思います。
 人間の生まれる始まりは、「受精卵」という一つの細胞です。それが分裂して数をふや
し、脳細胞や筋肉細胞、内蔵の細胞、皮膚の細胞など、いろいろな細胞に分かれていきま
す。そしてそれらが全部そろうと、いよいよ「人間」ができ上がります。
 一方、大生命の始まり(地球の生命の始まり)は、約40億年前に生まれた「一つの生
命体」です。それが繁殖して数をふやし、進化をくり返して、さまざまな生きものに分か
れて行きました。そして今では、三千万種を越えるともいわれる、地球のすべての生きも
の達によって、「大生命」ができ上がっているのです。
 このように考えると、やはり、地球に棲む個々の生きものは「大生命の細胞」であり、
それら全体で「一つの大きな生命」を作っているとしか思えません。

 ところが私たちは、大生命を「一つの生命」として、自分の生命のように実感すること
ができません。だから、大生命の存在に疑問を感じてしまう気持ちも分かります。
 しかし例えば、人間の体を作っている個々の細胞が、人間という「一つの生命」の存在
を実感できるでしょうか?
 たぶん、細胞に考える能力があったとしても、細胞の立場からは、「人間の存在」を実
感できないと思います。なぜなら細胞が実感できるのは、その細胞自身と、あとはせいぜ
い隣の2個か3個の細胞ぐらいだからです。なので、37兆2000億個もの細胞によっ
て「一つの生命」を作っていることなど、細胞の立場では実感できるはずがないのです。
 大生命の場合もこれと同じです。私たち個々の生きものは、大生命を、自分の生命のよ
うに「一つの生命」として実感することができません。しかし、地球のすべての生きもの
が一つにつながり、「一つの大きな生命」を作っていることは間違いないのです。そうで
なければ、どんな生き物であっても、この地球上で生きることが不可能だからです。

 この地球上で、私たちすべての生きものが、生きているという、絶対に否定できない事
実。まさに、その事実こそが、大生命という「一つの大きな生命」が存在する、確かな証
拠となっているのです。


3章 大生命の愛
 大生命は、私たちを完全に受け入れてくれます。
 大生命は、私たちの存在を根底から認めてくれます。
 大生命は、私たちを大きな愛で包み込んでくれます。
 つまり大生命は、「大いなるもの」ではないけれど、「大いなるもの」と同じような働
きをします。ここでは、それについてお話したいと思います。

 まず第一に、大生命は、私たちを「大生命の細胞」として完全に受け入れてくれます。
 前の2章でお話しましたように、地球のすべての生きものは、大生命の細胞でした。そ
してそれは、私たちも決して例外ではありません。あなたも私も、すでに大生命の細胞と
して、その一部になっているのです。だから私たちは、大生命に見放されたり、大生命か
ら切り捨てられることは、絶対にありません。

 そして第二に、大生命は私たちの存在を根底から認めてくれます。
 たとえば、私たちが生まれ、呼吸ができ、食べものが手に入り、心と体が育ち、異性を
愛し、子孫を残すことができるのは、すべて大生命のお陰です。
 なぜなら人類も含めた、地球の生命全体による生命維持システム、つまり「大生命」が
存在しなければ、それらのことはすべて不可能だからです。
 つまり私たちが存在できるのは、大生命が私たちの存在を認め、私たちの存在を根底か
ら支えてくれるからです。もしも大生命が存在しなかったら、私たちは絶対に存在できな
いのです。
 だから、あなたや私の存在を認めているのは、あなた自身でも私自身でもありません。
 また、家族でも学校でも会社でも世間でもありません。
 「私たちが今ここに生きて存在すること」を認めているのは、「大生命」なのです。

 そして第三に、大生命は、「大きな愛」によって、私たちを包み込んでくれます。
 なぜなら大生命は、地球のすべての生命を生かし、育んでいるからです。つまり大生命
は、「生命の存在を肯定」しているのです。そして「生命の肯定」とは、「愛」であると
私は考えています。

 と、いうのは、
 たとえば異性を愛し、子供を生み育てること。
 人類全体を愛し、怪我や病気、飢え、貧困、苦悩などから人々を救うこと。あるいは、
教育や文化の普及に貢献したり、平和を守る活動に参加すること。
 地球の生きとし生きるものを愛し、絶滅しそうになっている動物や植物を救ったり、地
球の自然環境を守ること。

 これら、新しい生命を生み育て、困っている生命を救い、「生命」が末永く存続するよ
うに苦労すること。生命の存在を望み、願い、生命を肯定すること。それこそが「愛」で
あると、私は考えているからです。

 その逆に、生命の存在を否定することは、「憎しみ」です。
 なぜなら、殺人、テロ、戦争、大量虐殺・・・ これら生命を抹殺し、生命の存在を否
定しようとする動機は、すべて「憎しみ」が原因になっているからです。
 このように、「生命の否定」が「憎しみ」であることを考えれば、「生命の肯定」が
「愛」であることを、納得して頂けるのではないでしょうか。

 ところで大生命は、この地球上に生命をできるかぎり増やし、すべての生命を生きられ
るだけ生かそうとしています。
 大生命は、生命の存続をたいへん強く望んでおり、事実そのように働きかけています。
もしもそうでなければ、地球の生命が40億年も存続するわけがありません。
 だから大生命は、生命の存在を肯定しています。つまり大生命は、地球のすべての生命
を愛しているのです。それを私は、「大生命の愛」と呼びたいと思います。

 大生命の愛とは、
 40億年もの長いあいだ、この地球上に生命を存続させてきた愛。
 食物連鎖の苦しみを乗りこえ、地球の生命を、その全体で支え合おうとする愛。
 この地球上を、生き物でいっぱいにしようとする愛。
 すべての生命を、生きられるだけ生かそうとする愛。
 雌雄、親子、家族、群れ、共生関係など、生き物どうしの様々な協力関係のなかに存在
する愛。
 生きとし生きるものすべての、幸福を望む愛。
 地球の生命界に満ちている、愛のすべて・・・ です。

 私たちが、今ここに生きて存在できるのは、「大生命の愛」に抱かれ、「大生命の愛」
に守られているからです。
 私たちが生まれたこと、呼吸ができること、食料があること・・・ これらすべてが、
「大生命の愛」によってなされているのです。
 「大生命の愛」がまったく存在しない場所とは、たとえば暗黒の「宇宙空間」です。宇
宙空間には、生きものが全く存在せず、酸素も食料もありません。そのような場所では、
私たちは生まれて来ることも、生きることも出来ません。
 だから、「私たちが今ここに生きて存在すること」がまさに、大生命の愛に抱かれ、大
生命の愛に守られていることの、絶対的な証拠となっているのです。

 ところで私は、「大生命の愛」にたいして、次のようなイメ-ジを持っています。
 優しくて温かい、愛の光や波動のような・・・
 小春日和の暖かな野原のような・・・
 まるで空気のように私を包みこみ、息をすると一緒に吸い込んでしまいそうな・・・
 天にも地にも、あらゆる所に存在しているような・・・
 動物にも植物にも、あらゆる生命の中に、その片鱗が見え隠れしているような・・・
 どっしりとした大地のように、すべての生命を根底から支えているような・・・
 あたかも母親の子宮のように、すべての生命を守り育むような・・・
 大きな愛で私を包み、とても安らいだ気持ちにさせるような・・・

 きわめて情感的ですが、私は上のようなイメージを、「大生命の愛」に対して持ってい
ます。


4章 「大生命」から「宇宙の原理へ」
 前章でお話してきましたように、
 大生命は、私たちを完全に受け入れてくれます。
 大生命は、私たちの存在を根底から認めてくれます。
 大生命は、私たちを大きな愛で包み込んでくれます。
 しかも大生命は、神のように見ることも触ることも出来ないものではなく、「地球に生
きる生命」として、間近に見ることも、触ることもできます。
 木々、草花、虫、鳥、獣、魚・・・ これら植物や動物のすべては、「大生命の細胞」
として、大生命の一部を担っています。植物や動物を見ることは大生命を見ることであり、
植物や動物に触れることは大生命に触れることです。そして何よりも、私たち自身が、す
でに大生命の細胞であり、大生命の一部なのです。
 地球の生命に触れれば、大生命の存在は実感できます。
 深呼吸を一回すれば、大生命の存在は実感できます。
 ご飯を一口たべれば、大生命の存在は実感できるのです。
 このように大生命の思想は、あくまでも「生物の存在」と「生物の働き」に概念を限定
しています。だから「大生命」は、神を拒絶していた当初の私にも、受け入れることがで
きたわけです。

 しかし大生命は、「生物の存在とその働き」に概念を限定しているので、それによる限
界がどうしてもあります。
 このような不満は、私が「大生命」について考えはじめた当初から持っていました。と
いうのは、「生物以外のもの」が生命に与える働きについて、大生命だけでは説明ができ
ないからです。
 たとえば、太陽や水が生命に与える働きは、大生命だけでは説明ができません。なぜな
ら太陽や水は、「生物の働き」によって作られたものではないからです。
 さらには、この宇宙全体つまり、時間や空間、物質、エネルギー、太陽、地球、大地、
海、大気、水など、これらのものが存在しなければ、生命が誕生することも、生命が存続
することもできません。
 このように生命は、「生物だけではどうにもできない力や作用」を、たくさん受けて存
在しているのです。


 そこで私は、大生命のつぎに、「宇宙の原理」というものを考えました。

 しかし、それを説明する前に、まず「原理」という言葉を辞典で調べると、次のように
なっています。
 --------------------------------------
 もののよって立つ根本法則。他のものがそれに依存する本源的なもの。世界の根源。
                             (広辞苑 岩波書店)
 --------------------------------------

 これを引用すれば「宇宙の原理」とは、宇宙のよって立つ根本法則。宇宙が存在するた
めに依存する本源的なもの。宇宙の根源。と、いうことになるでしょう。

 それを少し具体的に説明してみると、たとえば「宇宙の原理」とは
 ビッグバンによって、この宇宙を誕生させたもの。
 ビッグバンのエネルギーから、水素やヘリウムなどの物質を作り出したもの。
 それらの星間物質から、恒星や惑星そして地球を作ったもの。
 地球に生命を誕生させ、それを人間にまで進化させたもの。
 私たち人間に、自我意識や思考能力や感情を持たせたもの。
 その他、様々な自然法則や、様々な因果関係や、様々な偶然や必然を司るもの。
 ・・・・・・等々。

 具体例を上げれば、まだまだ限がありませんが、これら、宇宙に存在する全てのものを
司る根本法則が「宇宙の原理」です。そして、当然ながら私たちも、この「宇宙の原理」
によって存在し、生かされています。だからこそ私たちは、今ここに生きて存在できるわ
けです。

 ところで!
 「宇宙の原理」と、いわゆる「宗教の神」とでは、決定的に違うところがあります。
 それはつまり、「宗教の神」は、その神を信仰する者にしか存在しないけれど、「宇宙
の原理」は、信仰のあるなしに関係なく存在するところです。
 なぜなら、この宇宙に「存在するもの」が存在している以上は、「それを存在させてい
る何か」(つまり宇宙の原理)が、必ず存在するはずだからです。

 たとえば、この宇宙に「時間」や「空間」が存在する以上は、「時間や空間を存在させ
ている何か」(つまり宇宙の原理)が、必ず存在するはずです。
 この宇宙に「物質」が存在する以上は、「物質を存在させている何か」(つまり宇宙の
原理)が、必ず存在するはずです。
 そして、この宇宙に「生命」が存在する以上は、「生命を誕生させ、それを生かし続け
ている何か」(つまり宇宙の原理)が、必ず存在するはずなのです。(地球は宇宙の一部
だから、地球に生命が存在することは、宇宙に生命が存在することです。)

 このように「宇宙の原理」は、信仰のあるなしに関係なく、「論理的に存在しなければ
ならないもの」です。だから「宇宙の原理」は、無理に信仰などしなくても、厳然と存在
するのです。

 ところが一方、「宗教の神」は、人々に信仰を強要しなければ、存在することが出来ま
せん。そこになにか、人為的で作為的な感じがしてしまいます。
 そのような神は、どうしても「宇宙の原理」に反しているような気がしてなりません。
つまり、なにか大自然の摂理に背いているような、不自然な感じがするのです。
 そのように感じるのは、それが人間の思惑によって勝手に作り出された「偽物の神」だ
からでしょう。そして事実、そのような「偽物の神」は、地動説や進化論などの科学的事
実を否定したり、信者に輸血を拒否させたり、金儲けの道具や、テロや戦争の道具に使わ
れたりします。

 しかし「宇宙の原理」は、宇宙全体を司る根本法則なので、人間の勝手な思惑に左右さ
れません。人間がどんなに作為的な思惑を巡らそうとも、そんなことには全く関係なく、
「宇宙の原理」は厳然と存在するのです。


5章 「宇宙の原理」から「大いなるもの」へ
 前章でお話した「宇宙の原理」は、私が求める本当の神、つまり「大いなるもの」と、
ほとんど同じです。
 しかしながら、「宇宙の原理」という呼び方は、何となく無機的で、無味乾燥であり、
冷たい感じがしてしまいます。だから、「私が求める本当の神」を表現するには、ちょっ
と寂しい感じが否めませんでした。
 しかしそれを、「大いなるもの」と呼び方を変えることにより、無味乾燥ではなく、う
るおいがあって、暖かな感じになりました。そして、「私が求める本当の神」として自分
を包み込んでくれるような、とても安心できる存在であることを、良く表現できるように
なったのです。

 ところで前にもお話しましたが、私は当初、神を拒絶していました。
 そのため、「宇宙の原理」から「大いなるもの」へと呼び方を変えることに、ものすご
く大きな抵抗がありました。なぜなら、「大いなるもの」という呼び方には、「神のニュ
アンス」が含まれるからです。だから私は、呼び方を変えるのに、かなり思いきった決断
が必要でした。
 しかし結局、やはり私の心情としては、「宇宙の原理」と呼ぶより、「大いなるもの」
と呼んだ方が、「私が求める本当の神」を表現するのに、より適切であると思うようになっ
たのです。
 つまり、「宇宙の原理」から「大いなるもの」へと呼び方を変える過程で、神を拒絶し
ていた私から、神を認めるようになった私へと、生まれ変わったわけです。

 さて、ここで、
 「大いなるものとは、この世を、この様にしているものである」と、定義したいと思い
ます。
 ここで、「この世」とは、人間や人類社会、生命、生態系、地球、そして太陽系や銀河
系を含めた、「宇宙全体」のことをいいます。
 そして、「この世を、この様にしているもの」というのには、つぎの三つの意味が含ま
れています。
 1.この世を、この様な「存在」にしているもの。
 2.この世を、この様な「状態」にしているもの。
 3.この世を、この様な「状況」にしているもの。
 つまり「大いなるもの」というのは、人間や人類社会、生命、生態系、地球、太陽系や
銀河系を含めた宇宙全体を、この様に存在させ、この様な状態にし、この様な状況にして
いるものです。

 つぎに、「宇宙の原理」の話と重なりますが、「大いなるもの」について、すこし具体
的に説明しましょう。
 たとえば「大いなるもの」とは、
 ビッグバンによって、この宇宙を誕生させたもの。
 ビッグバンのエネルギーから、水素やヘリウムなどの物質を作り出したもの。
 それらの星間物質から、恒星や惑星そして地球を作ったもの。
 地球に生命を誕生させ、それを人間にまで進化させたもの。
 私たち人間に、自我意識や思考能力や感情を持たせたもの。
 その他、様々な自然法則や、様々な因果関係や、様々な偶然や必然を司るもの。
 ・・・・・・等々。
 具体例を上げれば、まだまだ限がありませんが、それら全てを、ひっくるめたものが、
「大いなるもの」です。

 ところで・・・
 生命は、生物の力だけで生まれた訳ではありません。
 生命は、生物の力だけでは生きて行けません。
 生物以外の「計り知れない力」がたくさん働いて、生命は生まれ、生かされ、支えられ
ています。
 そして、その「計り知れない力」に対して、無上のありがたさを感じたり、この上ない
感謝の気持ちが生じたり、
 「大宇宙や大自然から、生命の存在は許されているのだ!」
 「私たちが今ここに存在できるのは、大いなる自然の摂理により、私たちの存在が認め
られているからだ!」
 「ゆえに私たちの存在は、大自然によって愛され、祝福されているのだ!」
 と、いうような気持ちが起こったとしても、まったく不思議ではありません。少なくと
も人類の多くが、そのような感性をもっているのは否定できない事実でしょう。

 そこに、生物を越えた存在、つまり「大いなるもの」の必要性が生まれて来るわけです。

 前の2章と3章でお話した大生命の概念は、「愛」や「生命」が存在するのは生物だけ
であり、生物以外の大宇宙や大自然には、愛や生命など存在しないとするものでした。
 しかし「大いなるもの」の場合は、大宇宙や大自然そして、それらを司る自然法則にま
で、愛や生命が存在すると考えます。
 もうすこし正確に言えば、大宇宙や大自然や自然法則のなかに、愛や生命を生じさせる
「根源的な原因」や「根源的な力」、あるいは「根源的な作用」や「根源的な働き」が存在
すると考えるのです。

 そこのところに、「大生命」から「大いなるもの」への、概念の飛躍が存在するのです。



 つづく



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