どうか生きることを愛して下さい 6
                               2024年3月3日 寺岡克哉


32章 理性と感性
 「生命の肯定」は、論理的な思考能力である「理性」によって行なわれるのでしょうか?
 それとも、感覚や感情などといった、「感性」によって行なわれるのでしょうか? 
 私は今まで、生命の肯定は「理性で行なうもの」と考えていました。なぜなら、私の
「感性」が生命を否定していたからです。以前の私は、「感性が生命を肯定する」という
実感を、まったく知らなかったのです。
 しかし今は、生命の肯定は「理性」と「感性」の両方で行うものと考えるようになりま
した。というのは、「理性」によって生命肯定の努力を続けているうちに、私の「感性」
が、生命を肯定するようになって来たからです。

 「感性による生命の肯定」を実感すると、「理性だけでは、どうしても真の生命の肯定
にたどり着けない!」と、いうことが分かってきます。
 なぜなら、いろいろな理屈をならべ立て、「理性」でいくら生命を肯定しようとしても、
なにか「カラ元気のような空しい感じ」が、どうしてもしてしまうからです。
 しかし最初のうちは、「理性による生命の肯定」がとても大切です。なぜなら、まずは
じめに「理性」によって生命を肯定しなければ、「感性」が生命を肯定するはずがないか
らです。「理性」が生命を否定しているのに、それに反して、「感性」が生命を肯定する
ことなどありえません。
 しかし、その逆は可能です。「感性」では生命を否定していても、「理性」は生命を肯
定することができます。そこが、「理性」のすごいところです。
 だから「生命の肯定」の第一歩は、「理性による生命の肯定」から始めるしかないので
す。そのため、「理性による生命の肯定」がとても大切になるのです。

 しかし、心の底からエネルギーの湧きおこるような「生命の肯定」は、「感性」によっ
てなされるのです。「感性による生命の肯定」ができてはじめて、
 「生きることは素晴らしい!」
 「この地球に、生命が存在することは素晴らしい!」
と、本当に心の底から実感できるのです。

 そして・・・
 「私と宇宙が一つになる!」
 「私と神が一つになる!」
 「神の光を全身に浴びる!」
 「仏の慈悲に抱かれ、守られている!」
 「私の体が、愛の波動に包まれる!」
 「私の体に聖霊が降りてくる!」
 「神の国、天の国に入る!」
 「涅槃(ニルヴァ-ナ)に入る!」
 「真の生命を得る!」
 「永遠の命を得る!」

 これらの言葉が、「感性による生命の肯定」を実によく表していることが、実感として
理解できるのです。以前の私は、これらの言葉を「知識」としては知っていても、その本
当の意味をまったく理解していませんでした。

 しかしながら、あまりにも「感性」だけを増長させてしまうと、だんだんと思考が感情
的になり、理性的な判断ができなくなる恐れがあります。
 あるいは、「感性による生命の肯定」を実感したことのない人間に対して、ある種の
「見下すような感情」が生じる恐れもあります。

 たとえば、
 「あの人間は、真の生命を知らない。」
 「あの人間は、永遠の命を持っていない。」
 「あの人間は、死人である!」
 「あの人間は、動物としてしか生きていない!」
 「私は神に愛され、神に選ばれた人間なのだ!」
と、いうような感情です。

 これは、たいへん危険な感情です!
 私は、「感性による生命の肯定」が実感できるようになり、以前にもまして、このよう
な「他人の生命を見下す感情」が、とても危険であることを確信しました。
 というのは、「偽宗教」に取りつかれた狂信者が、他人の生命を軽視する気持ちを、自
分の実感として理解できたからです。
 「感性による生命の肯定」が強くなればなるほど、「理性の力」も強くして行かなけれ
ばならないのです。

 「真の生命の肯定」は、「理性」と「感性」がお互いに切磋琢磨し、その両方が限りな
く向上したところに存在するのでしょう。
 だから「理性の比重が大きい人」は、感性を磨かなければなりません。その反対に、
「感性の比重が大きい人」は、理性を鍛えなければならないのです。

 理性の比重が大きな人は、感性による生命の肯定を、「根拠のない自己陶酔にすぎな
い!」と考えてしまいがちです。
 しかしそれが、「真の生命の肯定」から自分自身を遠ざけてしまうのです。
 そのような人は、感性を磨くトレ-ニングが必要です。
 愛の感情を高め、生命の放つエネルギーを、心と体の全体で感じとるのです。大自然に
感謝し、感動する心を育てるのです。

 たとえば、
 優しさと安らぎの「ムード」を、全身にまとっている感覚。
 自分の体から「愛の波動」が放たれる感覚。
 心の底から「愛のエネルギ-」が湧きおこる感覚。
 大生命の「大愛」に抱かれ、守られているという実感。
 大自然の恵みに感謝する心。
 「地球のすべての生命が大好き!」という感情。
 「自分は生かされている!」という実感。
 これらを育てて行くことが大切です。

 一方、感性の比重が大きな人は、理性的に深く考えて判断することを、「人情味のない、
機械的で冷たいもの」と、感じてしまいがちです。つまり「理性」というものに対して、
ある種の誤解と偏見をもっているのです。
 そしてそれが、「盲目的な信仰」や「狂信」に走らせてしまう遠因となるのです。
 だから感性の比重が大きな人は、つねに「理性的」になるように努めなければなりませ
ん。感情が高まり過ぎたら、すこし頭を冷やして冷静になるのです。
 「理性」をぬきにして、「真の生命の肯定」は絶対にありえません。そのことを、いつ
も肝に命じなければなりません。

 そして神は、人間に対して、
 人を殺すな!
 姦淫するな!
 盗むな!
 偽証するな!
 貪欲にむさぼるな!
と、厳しく戒めていることを、徹底して心の底に浸透させなければなりません。

 どのような理由であれ、「神の言葉」として、これらが曲げられることは絶対にありま
せん。もし、これらの言葉を曲げたり破ったりしたならば、その信仰が「偽物」であるこ
とが、それこそ「神の義」によって証明されるのです。
 つまり、これらの言葉を守ることは、「正しい信仰」を守るための根幹なのです。正し
い信仰は、つねに「理性的な良識」を大切にします。

 「信仰」の問題点は、強烈な感情が暴走すると、非理性的、盲目的、排他的になってし
まうことです。
 「合理主義」の問題点は、非人間的で機械的な「冷たい理性」が支配的になると、「人
の心」や「人間性」が失われてしまうことです。
 真の生命の肯定は、「愛の感情」と「理性的な良識」(仏教的にいえば、「慈悲の心」
と「正しい知恵」)の両方を、限りなく向上させた所にあるのです。


33章 最高の愛
 「最高の愛の感覚」とは、一体どんな感じがするのでしょう?
 私は、それを無性に探求したくなることがあります。この欲求に駆られるとき、自分が
「何かの見えない力」に、導かれているのではないかとさえ感じてしまいます。たぶんこ
れは、食欲や性欲と同じような、「生命の根源的な欲求」なのかも知れません。

 ところで、ここでいう「愛の感覚」とは、自分の心が愛に満ちているときに感じる、
「心の感覚」と「体の感覚」の両方のことです。
 前にもお話しましたが、理性の伴わない「感覚だけの愛」はとても危険です。それは私
も、たいへんよく承知しています。
 しかしながら、「生きることは辛くて苦しいだけだ!」としか感じられなくなった人た
ちに、「生命肯定の努力を続ければ、このような幸福感を得ることもできるのだ!」とい
うことを、ぜひとも知って頂きたいのです。
 それで、私が今まで経験したことのある「最高の愛の感覚」というものについて、ここ
に書き記しておきたいと思いました。

 今の私は、黙とう(心を無にして行なう無言の祈り)によって瞑想をすると、「愛の感
覚」を高めることが出来るようになりました。
 そのとき、まず最初に訪れる「愛の感覚」とは、
 最愛の異性と「ギュ-ッ」とつよく抱きしめ合って、「身も心もすべて一つになり、溶
け合ってしまいたい!」と、いうような感覚です。
 あるいは、「最愛の異性に、身も心もすべてを捧げ尽くしたい!」というような感覚で
す。
 しかし、この「愛のレベル」は、単なる肉体的な性欲をすでに超越したものです。なぜ
なら、心はたいへんに高揚しているのですが、性的な欲求などまったく感じないからです。
愛の感情が、あるレベルより高くなると、逆に性欲は消えさってしまうのです。
 しかしながら、胸が「キュン」としたり、「ジ-ン」としたり、「ドキドキ」したり、
「ワクワク」したりして、めくるめくような、とろけるような幸福感があります。
 また、全身に生命のエネルギ-が満ちあふれて、頭や手足が「ジンジン」として来ます。
体の全体がほんわかと温かくなり、少し頭に血が上って「ポ-ッ」とします。そして全身
が、暖かく優しい愛のムード(愛の光や波動)に包まれているような感じがするのです。
 このように、「愛の感覚」が最初に生じるときは、「異性への愛」から始まるような気
がします。しかしこれは、単なる肉体的な性欲よりも、「高いレベルの愛」であることは
確かなのです。
 なぜなら、そのような心の状態のときに、たとえば異性の肉体などの「性的な連想」を
試しに行ってみます。そうすると「愛のレベル」が反って下がり、心がしらけてしまうか
らです。
 また例えば、あるときに肉体的な性欲が起こったとします。しかしその時に、「最愛の
異性と、身も心も一つになってしまいたい!」というレベルまで愛の感情を高めると、性
欲が消えさってしまうからです。
 またあるいは、あまりにも素敵な異性に出会ったとき、心はたいへんに高揚し、「いつ
までも一緒にいたい!」という強い気持ちは起こりますが、肉体的な性欲は起こらないか
らです。
 以上のような体験から、「異性への精神的な愛」(プラトニック・ラブ)は、単なる肉
体的な性欲よりも、「高いレベルの愛」であることが分かるのです。

 ところで、このような「愛の感覚」をつかむためには、「性的な禁欲」を少し心がけた
方が良いかもしれません。というのは、少しも性欲を我慢せずに「性的なエネルギ-」を
使いきってしまうと、愛のレベルを高めるためのエネルギ-が、無くなってしまうからで
す。
 しかし「禁欲」とは言っても、性欲を頭ごなしに抑えつけるのではありません。性欲の
エネルギ-を、愛のレベルを高めるパワ-に変えるのです。つまり自分の心を抑えつける
のではなく、性欲のパワ-で、心をどんどん高いレベルに押し上げるのです。だからこの
「禁欲」には、自分の心を抑えつけたときに生じる、胸や喉の詰まるような「抑圧感」が
ありません。
 「愛の感覚」の正体とは、実は「性欲を昇華したもの」ではないかと私は考えています。

 「愛のレベル」がさらに高くなると、「最愛の異性と、身も心も一つになってしまいた
い!」というのと同じような感覚が、赤ん坊や、子供に対しても起こるようになります。
 赤ん坊や子供を、「ギュ-ッ」と抱きしめたくなってしまいます。私に子供はいないの
ですが、「子供を目の中に入れても痛くない!」というのは、このような感じなのかも知
れません。
 さらには、大人や老人に対しても、同じような感情が起こってきます。男も女も子供も
大人も老人も、みな同じように愛しく感じるのです。
 そして、病人や怪我人、体の不自由な人、精神的に苦しんでいる人、戦争や飢えに苦し
んでいる人々に対して、「何とか力になってあげたい!」とか、「何とか苦しみを取り除
いてあげたい!」というような気持ちが起こってきます。もちろん、それら全ての人々を
救うことは、とうてい不可能です。しかし心の底から、そのような感情とエネルギ-が湧
き起こってくるのです。

 ところで、このような「隣人愛」や「人類愛」は、「異性への愛」よりも高いレベルの
愛であるのは確かです。
 なぜなら、心の中が隣人愛や人類愛に満ちているときに、「一人の異性だけを、命を懸
けて愛する!」という思いを、試しに起こしてみます。
 そうすると、何か二人だけの狭い世界に閉じこもっているような、たいへん窮屈な感じ
がするからです。「二人だけの愛」に閉じこもり、他の人々を無視したり排斥したりする
のは、所詮は自分たちの「エゴイズム」にしか過ぎないように感じてしまいます。そして
愛のレベルが下がり、心がしらけてしまうのです。
 このようにして、隣人愛や人類愛の方が、異性への愛よりも「高いレベルの愛」である
ことが分かるのです。

 さらに「愛のレベル」が高くなると、犬や猫などの動物や、草や木などの植物を含めた、
「地球のすべての生命と一つになりたい!」という感覚になります。
 とにかく、地球のすべての生命が、愛しく感じられるのです。
 自分が生きていることと、この地球に生命が存在することが、嬉しくて嬉しくて仕方が
なくなります。そしてそれが、涙が出るほどありがたく感じます。
 ところで・・・ 生命には、怒りや憎しみ、エゴイズム、闘争、殺し合いなどの、「悪」
が存在します。しかし愛のレベルがここまで高くなると、それら「生命の悪」をも含めて、
「生命」というものの存在が愛しく感じられるのです。
 もちろん、「生命の悪」を容認するわけではありません。しかしながら、「生命の悪」
が存在するからと言って、
 「生命の存在は、悪以外の何ものでもない!」とか、
 「生命など、存在しない方が良いのだ!」
というような、「生命の存在を否定する感情」が起こらなくなるのです。
 ただひたすら、地球のすべての生命の幸福と平和が、自分の望みの全てになるのです。

 そして、さらに愛のレベルの高くなった状態が、「最高の愛の感覚」なのです。
 この状態になると、精神が高いレベルの一点に「ギュ-ッ」と集中し、何も考えられな
くなってしまいます。つまり思考が止まり、頭の中が「真っ白」になってしまうのです。
 思考は止まるのですが、しかしながら、精神はたいへんに高揚しています。そして体の
全体が、「ジンジン」とした生命のエネルギ-に満ちあふれています。
 このような状態になると、もう、「地球のすべての生命が愛しい!」という気持ちも消
えさってしまいます。
 ただ、「無限に高いところにある『何ものか』と一つになりたい!」という、たいへん
に強烈な「求める思い」だけが心の中に存在し、それが自分の全てになるのです。
 「求める思い」をさらに求めて、「求める思い」がどんどん高まっていきます。しかし、
具体的な「求めるもの」が存在するわけではありません。この手で触れることの出来ない
「遥かなる無限の高み」を、ただひたすら一心に求めるのです。
 それが、私の経験した「最高の愛の感覚」なのです。

 「愛のレベル」が最高に上りつめると、すべての思考が止まってしまいます。つまり自
分の心が、ある意味で「無の状態」になってしまうのです。
 しかし、その「無の状態」は、生きているのか死んでいるのか分からないような、無気
力で虚無的な状態ではありません。つまり、「心が死んでいる状態」とはまったく違うの
です。なぜなら、精神と肉体はたいへんに高揚し、「生命のエネルギー」が心と体に満ち
あふれているからです。

 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
(新約聖書 マタイによる福音書 22章37節)とは、このような状態を言うのかも知
れません。


34章 愛の完成
 今お話した「最高の愛の感覚」は、たいへん素晴らしいものです! とくに、「生命の
否定」に取りつかれて苦しんでいる人には、何とかして「最高の愛の感覚」をいちど体験
してほしいと、心から願ってやみません。

 しかしながら私は、最高の愛の感覚が、「愛の完成」であるとは考えていません。
 なぜならそれは、精神と体がたいへんに高揚した状態であり、精神力も体力も消耗して、
その状態を長く続けることが出来ないからです。
 そしてまた、触れることのできない「無限の高み」へ登って行くのは、なにか地に足が
ついていないような、上ずって落ちつきのない、不安定な感じがするからです。
 つまり「最高の愛の感覚」は、生命にとって無理がともなう、不自然で不安定な状態な
のです。
 「愛の完成した状態」が、生命に無理がともなうような、不自然で不安定な状態のはず
がありません。なぜなら「完成された状態」とは、無理がなく、自然で安定した状態のは
ずだからです。
 なので「愛の完成」とは、大地のようにどっしりと落ちついて安定し、むしろ「無意識」
とさえ言えるような、生命にとって極々自然な状態であるはずです。
 この本の最後にあたり、今の私が考えている「愛の完成」というものについて、お話し
てみたいと思います。


 「愛の完成」とは、一体どのようなものでしょう?
 私は、新約聖書のなかに、そのヒントを見つけることが出来ました。(しかしながら仏教
にも、それと同じような考え方はあります。)

 「父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせ
てくださる・・・。」               (マタイによる福音書 5章45節)

 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あな
たがたの天の父は鳥を養ってくださる。」      (マタイによる福音書 6章26節)

 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日生
えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」
                     (マタイによる福音書 6章28節、30節)

 これらの言葉は、神の愛(あるいは仏の慈悲)・・・ つまり「愛の完成」とは、善人も
悪人も、鳥も野の草も分け隔てをしない、「すべての生命に平等な愛」だと言っています。
 また、最初に挙げた言葉では、「愛の完成」とは太陽や雨のようなもの、つまり日光や水
のようなものだと言っています。私はこれに、空気(酸素や二酸化炭素)を加えても、良い
のではないかと考えています。
 日光や水や空気は、それらが十分にあると、その大切さにほとんど気がつきません。しか
し、これらがほんの少しでも不足すれば、すべての生命が、生きていられないほどの大きな
苦しみに見舞われるのです。
 これと同じように、「完成された愛」に十分に満たされていると、その愛の存在さえ気が
つきません。しかしその愛が少しでも不足すれば、生きていられないほどの大きな苦しみを
感じるのです。

 そして日光や水や空気は、「すべての生命に愛を与えているのだ!」というような、いわ
ゆる「意識」というものを全く持ちません。それらは「無意識」に、地球のすべての生命を
育んでいるのです。
 だから日光や水や空気は、
 「あの生き物は気に入らないから、少ししか与えないでおこう!」とか、
 「あの生き物は大いに気に入ったので、たくさん与えてあげよう!」などというような、
分け隔てをしません。日光や水や空気は、すべての生命に平等に与えられるのです。

 つまり「完成された愛」とは、
 十分に満たされていると、その存在にすら気がつかない愛。
 生命が生きるために、絶対に欠くことのできない愛。
 無意識の愛。
 すべての生命に平等な愛。
 太陽のように全てを照らし、海や大気のように全ての生命をつつみこみ、大地のように
どっしりと落ちついた愛。
 地球のすべて生命を、根底からしっかりと支えている愛です。

 このように、日光や水や空気、あるいは海や大地が生命に与えている働きは、「愛の完
成」を実によく表しています。
 逆に、人類がそれらの働きを注意深く観察することによって、愛の完成・・・ つまり
「神の愛」や「仏の慈悲」というような概念を、自然界から抽出したのだと思います。

 つぎに、「愛の完成」にたいへん近いものの例として、「植物の愛」というのを、お話
したいと思います。
 植物は光合成をすることによって、すべての動物に食料と酸素を与えています。もしも
植物がなかったら、どんな動物も生きることができません。つまり植物は、すべての動物
の生命を守り、育んでいるのです。
 これが「植物の愛」です。

 植物は、動物に食べられ続けても、何ひとつ不平や不満を言いません。ただ黙って、動
物に食べられるのみです。植物には、動物への怒りや憎しみが、まったく存在しないので
す。
 また植物には、「自分を犠牲にして、すべての動物を養っているのだ!」というような、
思い上がった気持ちもありません。
 つまり、植物には「意識」が存在しないのです。植物は、ただ無心に、あるがままに生
きているだけです。それでいて、すべての動物の生命を、しっかりと根底から支えている
のです。
 このような「植物の愛」は、「愛の完成」にたいへん近いものと思います。

 これまでの話から、「愛の完成した人」とは、どんな人かを考えてみましょう。そうす
ると、次のようになります。

 「愛の完成した人」は、一見すると水や空気のように目立たない人です。普段は、その
人の存在さえ気がつかないかも知れません。しかし、もしもその人を失ったならば、周り
の人々は水や空気を失ったかのように苦しむでしょう。

 「愛の完成した人」は、暖かな日ざしのような「愛の光」を周りに放ち、それを人々に
分け隔てなく与えます。

 「愛の完成した人」は、大地のようにどっしりと落ちついており、穏やかな海のように
優しく人々を包みこみます。

 「愛の完成した人」は、「愛を与えよう!」とか、「人の役に立とう!」などというよ
うな、こざかしいことを考えません。
 ただ無心に、あるがままに生きているだけです。しかしそれでいて、皆にとってかけが
えのない存在になっているのです。

 「愛の完成した人」とは、以上のような人だと私は思います。

 「愛の完成」とは、たいへんな努力を強いられたり、自分の命を犠牲にしてしまうよう
な、そんな激しくて厳しいものではないと私は考えています。

 植物、動物、人間・・・ 地球のすべての生命の、生き生きとした自然な状態。
 それぞれの生命が、あるがままに無心に生きている状態。
 それらの中のここかしこに、「愛の完成」は存在するのだと思います。


 終わり




あとがき

 「なぜ、自殺をしてはいけないのか?」
 「なぜ、人を殺してはいけないのか?」
 このような言葉ほど、悲しい言葉はありません。
 自分の生命の価値も、他人の生命の価値も、すべて否定しているからです。
 このように生命を否定するのは、「愛する心」を失ってしまったからです。

 物質的には、とても豊かになった現代社会・・・。
 それなのに、生きることを辛く感じる人がとても多いのは
 人間の「心」が貧しくなってしまったからでしょう。

 人間の本当の豊かさとは、心の豊かさです。
 そして心の豊かさとは、愛の豊かさです。
 「愛する心」を身につけ、それを陶冶して行くことは
 すべての人間に与えられた、人生の課題だと思います。

 人間として生まれたからには
 「生きていて良かった!」
 「生まれて来て良かった!」
 と、思えるようになる権利は誰にでもあります。
 そして人間ならば
 誰にでもその能力が備わっているはずです。

 どうか、生きることを愛して下さい!

 それが、私の願いの全てなのです。



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