どうか生きることを愛して下さい 5
                              2024年2月25日 寺岡克哉


25章 愛の増減法則
 世の中では、たいへん多くの人々が、何とかして愛を得ようと必死になっています。し
かし、ちっとも愛を得られないどころか、反って愛を失ってしまうことが多々あります。
 それは、愛の増減法則と、お金や物の増減法則が、まったく逆になっていることに気が
ついていないからです。
 たとえば、お金や物は奪えば奪うほど増え、与えれば与えるほど減ります。しかし「愛」
の場合はその反対に、奪えば奪うほど失い、与えれば与えるほど得られるのです。
 このように「愛の増減法則」は、お金や物の増減法則と、まったく逆になっています。
これが、「愛」というものを分かり難くしている原因ではないかと思います。

 ところで愛には、求める愛(エロス)と、与える愛(アガペ)があります。しかし日本
語では、これらは「愛する」という同じ言葉でくくられていて、一般に混同されています。
 しかし「愛の増減法則」から考えると、これらには大きな違いがあるのです。なぜなら、
愛は求めれば求めるほど失い、与えれば与えるほど得られるからです。
 だから「愛」を強く大きくして行くためには、「求める愛」と「与える愛」の違いを、
しっかりと知る必要があるのです。

 そこで次に、「求める愛」と「与える愛」の違いについて、お話したいと思います。
 「求める愛」とは、たとえば「私は、こんなにもあなたを愛しているのに、なぜあなた
は私を愛してくれないのだ!」と、いうような感情です。これは典型的な「求める愛」で
す。
 これをもう少し正しく表現すれば、「私は、こんなにもあなたの愛を求めているのに、
なぜあなたは、私に愛を与えてくれないのだ!」と、言っているのです。

 また、その他の例では、
 「だれか俺に愛をくれ!」
 「私をもっと愛して!」
 「他の誰よりも、一番に私を愛して!」
 「誰も私を愛してくれない・・・」
などの感情も、「求める愛」を表しています。
 また、子供の親に対する愛や、妹や弟の姉や兄に対する愛も、「求める愛」です。

 一方「与える愛」とは、「あなたがどのような状況になろうとも、私は決してあなたを
嫌いにならないし、絶対にあなたを見捨てはしない!」と、いうような愛です。
 あなたが・・・
 障害を持って生まれても
 容姿が悪くても
 学校の成績が落ちても
 大学の受験に失敗しても
 会社に就職できなくても
 リストラをされても
 破産をしても
 不治の病にかかっても
 手足を失うような大怪我をしても
 年老いて身動きがとれなくなっても・・・ 
 私は決してあなたを嫌いにならないし、絶対にあなたを見捨てはしません。
 というのが、「与える愛」の典型的なものです。

 また、
 「あなたが困っていたら、何とかして力になりたい!」
 「あなたが元気で幸せならば、それだけで私も幸せだ!」
 というのも、「与える愛」です。
 親の子供に対する愛や、兄や姉の弟や妹に対する愛も、「与える愛」です。

 ところで、ここで「与える愛」について、ちょっと注意を促したいと思います。
 「与える愛」とは、「俺は、お前に愛を与えてやっているんだ!」というような、自分
勝手で不遜なものではありません。
 あるいは、
 「お前を愛しているから、このようなことを言うのだ!」とか、
 「愛しているから、お前にこのようなことをするのだ!」というような、
 自分勝手な気持ちや行為を、相手に押しつけることでもありません。
 「与える愛」とは、相手のことを第一に考える愛です。相手の気持ちや人格を尊重する
愛です。そして、相手のことを本当に心から理解してあげようとする愛です。


 その反対に、「求める愛」は自分のことしか考えません。自分の気持ちがいちばん大切
で、相手の気持ちは二の次なのです。
 たとえばスト-カ-行為なども、「たいへん強く愛している!」ことには変わりありま
せん。しかし、相手の人格や気持ちをまったく無視した、そのような「自分勝手な情欲の
貪り」によって、相手の愛を得られることなど絶対にありません。
 また、スト-カ-の例は極端だとしても、一般に「相手から愛を貪り取ろうとする者」
には、警戒心や嫌悪感が起こってしまうのも、きわめて当然です。

 ところが、その逆に、
 自分に愛を与えてくれた人。
 自分を元気づけてくれた人。
 自分に生きる勇気や、生きる力を与えてくれた人。
 そのような人に対しては、安心して信頼することができます。そして自分もまた、その
人が何かで困っていたら力になりたいと思うのも、人間として自然な気持ちです。
 そのような訳で、「愛」は貪欲に求めれば求めるほど失い、与えれば与えるほど得られ
るのです。

 だから相手に対して、際限なく愛を求めてはなりません。
 また、相手に対して、自分を完全に受け入れてもらおうと、してはなりません。
 そんなことをすれば、その相手に、たいへん大きな負担をかけてしまうからです。
 そして、まず確実に、愛は失われてしまうでしょう。

 たとえば逆に、
 あなたは、「無限の愛」を相手に与えることが出来るでしょうか?
 あなたは、相手を完全に受け入れることが出来るでしょうか?
 とても出来ないと思います。私もそうです。人間ならばそれが当然です。「無限の愛」
を他人に与え、他人を完全に受け入れることなど、人間には不可能なのです。
 たとえば釈迦やキリストのように、人類全体で千年に一人ぐらいは、そのような人物が
現れるかも知れません。しかし釈迦やキリストといえども、「歴史上に実在した人物」と
しての彼らには、「無限の愛」を他人に与えたり、他人を完全に受け入れたりすることは、
とても不可能だったと思います。なぜなら歴史上に実在した彼らは、仏でも神でもなく、
まぎれもない「人間」だったからです。
 ゆえに、現実の世界にそのような人物など、存在するはずがないのです。もし、そのよ
うな人物を無理に捜し求めれば、せいぜい「偽教祖」に騙されるのがおちでしょう。

 だから、何がなんでも相手の愛を得ようとするのではなく、むしろ逆に、相手に愛を与
えるように心がけるのです。相手の気持ちを思いやり、相手の人格を尊重するのです。そ
うすれば、相手も自然に心を開いてくれるでしょう。
 相手に好かれようと必死になるあまり、自分の容姿や性格をくよくよと思い悩むよりは、
相手を本当に好きになり、相手を本当に理解しようと努めるのです。
 相手に対して、優しさ、安らぎ、元気、勇気を与えられるような人間に、自分から進ん
でなって行くのです。そうすれば相手からも、愛情と信頼がよせられること間違いありま
せん。

 「愛」を強く大きくして行くためには、相手に際限なく愛を求めたり、貪欲に愛を貪っ
たりしてはなりません。
 なぜなら、愛は求めれば求めるほど失い、与えれば与えるほど得られるからです。それ
が「愛の増減法則」なのです。


26章 愛を与えることが幸福の本質である
 今お話しましたように、愛は求めれば求めるほど失い、与えれば与えるほど得られます。
しかし、愛の増減法則についてさらに探求していくと、次のようなことが分かります。
 「愛を与えることそのものが、愛と幸福を増大させる本質である!」・・・と。

 たしかに始めのうちは、相手から愛されることを期待して、相手に愛を与ようとします。
それはギブアンドテイクの精神です。しかしだんだんと、「愛の見返りを求めること」そ
のものが、愛の増大を妨げていることに気がつくのです。
 愛の見返りを求めると、どれくらいの見返りが期待できるのかを計算してしまいます。
そして、「これぐらいの見返りしか期待できないのだから、これぐらいの愛しか与えない
でおこう」などという、浅ましい心が生じてしまいます。
 また、期待したほどの見返りが得られなければ、失望したり、怒りや憎しみが込み上げ
たりします。「私がこれだけ愛を与えているのに、なぜあなたは、それに見合うだけの愛
を与えてくれないのだ!」という気持ちになってしまうのです。


 さらに傲慢になると、
 「自分が与えた愛よりも、より多くの見返りがあって当然だ!」とか、
 「べつに自分から愛を与えなくても、自分は無条件に愛されて当然だ!」
 などというような、思い上がった心が生じてしまいます。そうなるともう、「愛を与え
ることは損だ!」としか、感じられなくなってしまうでしょう。
 「愛の見返り」を求めて愛を与えれば、それは結局、「愛の貪り」に陥ってしまうので
す。そして、「愛する心」をだんだんと失ってしまいます。
 このようにして、「愛の見返りを求めること」そのものが、愛の増大を妨げていること
に気がつくのです。

 ところでまた、私が以前、自己否定に苦しんでいたときの経験から、次のようなことも
分かっています。
 「憎むことそのものが、苦しみと不幸の本質である!」・・・と。

 自分が周りの人々を憎めば、それだけで、怒り、妬み、イライラ、不安、恐れなどの、
不愉快な気分が生じます。つまり「苦しみ」が生じるのです。そしてその「苦しみ」は、
周りの人々をつよく憎めば憎むほど、大きくなって行きます。
 さらにまた、自分が周りの人々を憎めば、たいへんな「孤独」にも苦しめられます。と
いうのは、自分が周りの人々を憎むことによって、「自分も周りから憎まれている!」と、
思い込んでしまうからです。
 なぜ、そのように思い込むのでしょう。それは逆に、自分が他人から「憎しみ」をぶつ
けられた場合を考えるとよく分かります。他人から憎しみをぶつけられれば、自分もその
相手に対して、「なんだこいつは!」というような、怒りや憎しみの感情が起こります。
そのような体験をくり返すことによって、「自分が他人を憎めば、自分も他人から憎まれ
るのに違いない!」と、心に深く刻みこまれるのです。
 周りの人々を憎むあまり、「自分は周りから憎まれている!」としか思えなくなったら、
「愛」を感じることが出来なくなります。それどころか、たとえ周りの人々から愛を与え
られたとしても、それこそ「無限の愛」を与えられたとしても、自分はその愛に気がつか
ないどころか、「私は周りから憎まれている!」としか感じられなくなってしまいます。
 このようにして、「憎むこと」そのものが、苦しみと不幸の本質であるのを悟るのです。

 ところが逆に、自分から周りの人々に愛を与えれば、それがそのまま、自分の喜びと幸
福になるのです。なぜなら、それによって自分も「愛」に満たされるからです。
 「憎むこと」そのものが、苦しみと不幸の本質であるのと同じように、「愛すること」
そのものが、喜びと幸福の本質なのです。
 そして、自分が周りの人々を心から愛していれば、もしも周りから誤解され、怒りや憎
しみを一時的に買ったとしても、そのことで自分は苦しみません。なぜなら、そのような
時でさえも、自分の心は「愛」に満たされているからです。そしていつかは、人々の信頼
を取りもどして仲直りができるのです。
 このことから、自分が周りから愛されているかどうかに関係なく、自分から周りに愛を
与えることこそが、愛と幸福を増大させる本質だと分かるのです。

 しかし先ほどもお話したように、人に愛を与えるときは、「愛の見返り」を求めてはな
りません。
 もちろん、相手から愛の見返りがあったときは、それを拒んではいけません。そんなこ
とをすれば、23章でお話した「愛の増幅循環」が途切れてしまうからです。「愛の見返
り」があったときは素直によろこび、感謝してそれを受け取ればよいのです。
 しかし、始めから愛の見返りを求めてはいけないのです。そんなことをすれば、愛の増
大を妨げてしまうからです。そして最悪の場合は、愛を失ってしまうからです。
 愛は、与えれば与えるほど増えます。しかしそれは、相手に愛を与えることによって、
自分も相手の愛を得られるからと言うよりは、むしろ「愛を与えること」そのものが、愛
を増大させる本質だからです。
 一見すると矛盾するように思えますが、「無償の愛」、「見返りを求めない愛」、「与
える愛」というのが、愛と幸福をもっとも増大させるのです。


27章 「与える愛」について
 相手に愛されるかどうかに関わりなく、自分から相手に愛を与えることが、愛と幸福を
増大させる本質でした。
 ここでは、この「与える愛」について、もう少し詳しく考えてみましょう。

 「与える愛」を実践すれば、相手の愛を得ようと必死になったり、相手の思わくの奴隷
になったりしません。
 なぜなら、相手の気持ちがすごく気になったり、相手の言うがままになったりするのは、
「愛の見返り」を求めているからです。そしてこれは、相手に対して「精神的に依存して
いる」状態です。
 ところが「与える愛」は、見返りをまったく求めません。だから、相手の思わくの奴隷
になることもありません。このように「与える愛」は、「精神的な自立」の上に成りたつ
愛なのです。

 そしてまた、与える愛は、「裏切られること」がありません。
 なぜなら裏切りは、「愛の見返り」の約束を破ることによって生じるからです。つまり、
ギブアンドテイクの関係を守らないことによって、「裏切り」が生じるからです。
 たとえば、
 「私がこんなに愛しているのに、あなたは少しも私を愛してくれない!」とか、
 「あなたは、本当は私よりも他の人を愛している!」
というのが、「裏切られた!」と感じるときの心情です。しかしそれは、自分が与えた愛
に見合うだけの見返りがなかったので、そう思ってしまうのです。せっかく自分が愛を与
えたのに、それがペイしなかったので、怒りや憎しみが込み上げてくるのでしょう。
 しかし、始めから「愛の見返り」を求なければ、そのような感情は起こりません。だか
ら「与える愛」には、裏切りなど存在しえないのです。

 しかしながら、「恩を仇で返される!」という場合もあるかも知れません。せっかく相
手に信頼と愛情を寄せていたのに、反対に恨みや憎しみを買ったり、さらには暴力を受け
たり、最悪の場合は殺されてしまうこともあるかも知れません。しかしそのような場合で
さえも、「与える愛」には裏切りが存在しないのです。
 そのいちばん代表的な例は、「キリストの死」です。
 キリストは、貧しい者、病気の者、目の見えない者、耳の聞こえない者、手足の不自由
な者、精神や心が病んでいる者、社会的に差別を受けている者に対して、愛と癒しを与え
続けました。しかし最後は結局、十字架につけられて殺されてしまったのです。
 十字架につけられたキリストは、
 「父(神)よ、彼ら(自分を十字架につけた人々)をお赦し下さい。自分が何をしてい
るのか知らないのです。」
 と、言いました。そのようなひどい仕打ちを受けても、キリストは決して、「民衆に裏
切られた!」と言うような怒りや憎しみの感情を抱かなかったのです。
 十字架につけられたキリストは、信頼していた弟子たちには逃げられ、周りの人々から
罵られ、手足を杭で打たれた激痛に耐えていました。そのような状況の中でさえ、キリス
トは人々に愛を与え続けたのです!
 キリストは、「与える愛には、裏切りが存在しない!」ということを、まさしく自分の
身をもって証明したのです。

 ところで、相手を信用するかしないかと、愛を与えることとは、まったく別のことです。
 たとえば、「私を信用しないのは、私を愛していない証拠だ!」などというのは、その
人間を操ろうとする言葉です。なぜなら信用できない相手でも、愛を与えることが出来る
からです。さらには、自分を殺すかもしれない敵でさえも、「愛を与えること」は原理的
に可能です。だから、相手を信用するしないと、愛を与えるのとは、まったく別のことな
のです。
 たしかに、「相手を信用してあげること」は、「愛を与えること」の中に入ります。し
かし「愛を与える」とは、相手を無批判に信用することではないのです。
 また、相手から嫌われないようにすることと、愛を与えることも、まったく別のことで
す。「愛を与える」とは、相手の機嫌を取ることではないからです。
 そして、相手の考えに自分を無理に合わせることと、愛を与えることも、まったく別の
ことです。これも、「愛を与える」とは、ご機嫌取りのことではないからです。自分とち
がう考えの持ち主でも、愛を与えることができます。そのような人とでも、お互いの考え
と人格を尊重し合った、「与える愛の関係」は成り立つのです。

 結局、愛と幸福は、自分の心の中にしか存在しません。
 経済的に恵まれ、病気や怪我もなく、外見上はいくら幸福そうに見えても、「自分は不
幸な人間だ!」と思い込んでしまったら、やはりその人間は不幸です。
 いくら周りの人々から愛されても、「自分はみんなの嫌われ者だ!」と思い込んでしまっ
たら、やはりその人間は孤独なのです。

 自分の心の中に「愛」が存在しなければ、結局、その人間は不幸です。
 「愛を与える」とは、自分の心の中に愛を宿し、その愛を強く大きくして行くことです。
 ゆえに「与える愛」は、愛と幸福を増大させる本質なのです。


28章 無限の欲望を愛の増大に向ける
 「根源的な苦」によって生じる無限の欲望を「与える愛」に向ければ、愛と幸福を無限
に増大させることができます。
 もちろん、人間の肉体や精神には限界がありますから、厳密には「無限」ではありませ
ん。しかし原理的には、この方法によって、愛と幸福を限りなく増大させることができる
のです。
 ところで「根源的な苦」とは、どんなに欲望を満たしても、なにか訳のわからない漠然
とした不安、空しさ、焦燥などに苦しめられるというものでした。そしてそれは、絶対に
解消することの出来ないものでした。なぜなら、ある欲望を満たし終えたとたんに不安や
空しさを感じはじめ、「根源的な苦」が再び生じてしまうからです。だから、「根源的な
苦」を誤魔化し続けるためには、欲望をどんどんエスカレ-トさせるしか方法がありませ
ん。そのため根源的な苦は、「無限の欲望」の原因となっているのでした。

 一般に、人間の欲望の対象となるものには、肉体的な快楽、金、地位、名誉、権力など
があります。しかしそれらは「有限」のものなので、それらによって「無限の欲望」を満
たすことは絶対にできません。
 ところが「愛」は違うのです!
 愛は、「無限に与えること」ができるからです。
 だから愛を与えることによって、無限の欲望を満たすことが出来るのです! 
 前でお話しましたように、「愛を与えること」そのものが、愛と幸福を増大させる本質
でした。だから、無限の欲望を「愛を与えること」に向ければ、愛と幸福を限りなく増大
させることができるのです。
 「無限の欲望」の求めるままに、愛を与えて、与えて、与え続けるのです。そうすれば、
それに応じて愛と幸福がどんどん増大して行きます。愛は無限に与えることができるから、
「愛を与えること」によって、無限に幸福になることができるのです。
 つまり愛を与え続けることによって、無限の欲望をつねに満たし続けることができるの
です。
 これは、たいへんに画期的な方法です!

 前にお話しましたが、「根源的な苦」によって生じる「無限の欲望」は、人類の無限の
発展の原動力でもありました。その原動力を、愛と幸福の増大に向けるのです。
 「根源的な苦」による不安や焦燥が生じたら、それを心の中に溜めておかないで、その
エネルギ-を使って周りの人々に愛を与えるのです。そうすれば、根源的な苦によって鬱
積したエネルギ-を、思いっきり外に解放することができます。そして不安や焦燥は消え
さり、自分の心が愛で満たされていきます。もう、あの胸のつまるような息苦しさを感じ
なくて済むのです。

 「与える愛」は、見返りを求めません。しかし不思議なことに、しっかりと自分の利益
になっているのです。生命には、そのような法則が存在しているのです。だから利他的な
行為は、利己的な行為でもあるのです。
 たとえば、釈迦やキリスト、さらに時代を下って、ナイチンゲ-ル、マハトマ・ガンジ-、
マザ-テレサ・・・等々、これら偉大な人々の利他的な行為は、決して自己の利益を無視
したものではないと思います。
 彼らの利他的な行為は、「自分の幸福」を限りなく追求した結果ではないかと、私は思
うのです。自分が求める「真の幸福」を、どこまでも追い求めた結果として、そのような
利他的な行為につながったのでは、ないでしょうか。それは、以前に16章でお話した
「正しい自己愛」を貫いた結果なのだと私は考えています。

 愛を与え続けることによって、愛と幸福は限りなく増大していきます。そして、その究
極においては、キリストが言ったように、敵をも愛せるようになるのかも知れません。


29章 「求める愛」を満たしてくれるもの
 「与える愛」は、愛と幸福を増大させる本質でした。
 しかし人間には、「愛を求める欲求」というのが、どうしても存在します。

 人間には、
 「永遠に愛されたい!」
 「限りなく大きな愛に、抱かれていたい!」
 「自分のすべてを受け入れてもらいたい!」
 という、たいへんに強い欲求があるのです。

 その事実をまったく無視したり、完全に否定してしまうことは、絶対にできません。
 人間の無限の欲望を「求める愛」に向けてしまい、「愛の貪り」に陥ってしまうことが
あるのも、人間ならば仕方のないことかも知れません。本人の自覚のあるなしにかかわら
ず、世の中のほとんどの人が、「愛されること」をたいへん強く望んでいるのです。

 しかし「人間」に対して、無限に愛を求めてはいけません!
 なぜなら、愛を求められた方の人間の、たいへん大きな負担になってしまうからです。
自分の親、子供、友人、恋人、あるいは妻や夫といえども、無限に愛を求めてはならない
のです。そんなことをすれば、逆に愛を失い、人間関係が壊れてしまいます。

 たとえば、自分の親や子供、あるいは妻や夫に対して、
 「自分だけを無限に愛してほしい!」と強要したり、
 「自分は無限に愛されて当然だ!」などという、思い上がった心を起こせば、
 親子関係や夫婦関係がギクシャクしてしまうのも当たり前です。

 無限に愛を与えることは、原理的には可能です。しかし現実の人間には、無限に愛を与
えることは不可能なのです。
 それは、自分のことを考えると良く分かります。
 あなたは、他人に対して、無限に愛を与えることが出来るでしょうか?
 とても出来ないと思います。私もそうです。しかしそれは、悪いことでも偽善でもあり
ません。現実に生きている「人間」には、それが当たり前なのです。だから「人間」に対
して、無限に愛を求めてはならないのです。
 (ところで「愛を与えること」により、「無限の欲望」をつねに満たし続けることは可
能です。自分の能力の限りにおいて、愛を与え続けることは可能だからです。しかし自分
の限界をはるかに越えて、無限に愛を与えることは不可能なのです。)

 無限に愛を与えることができるもの。私たちが無限に愛を求めても許されるものとは、
たとえば「釈迦の慈悲」とか、「キリストの愛」というようなものです。
 これらの愛は、現代でも多くの人々に「生きる力」を与え続けています。釈迦やキリス
トは、死んでもなお二千年以上にわたって、世界中の人々に愛を与え続けているのです。
「無限に愛を与えることができるもの」とは、例えばこのようなものなのです。
 もちろん、「現実に生きていた人間」としての釈迦やキリストには、無限に愛を与える
ことは不可能です。本人たちには、そのような強い意志があったと思いますが、「現実に
生きている人間」には、どうしても「生物としての限界」があるからです。

 だから、
 「無限に愛を与えることが出来るもの」
 「無限に愛を求めても許されるもの」
とは、現実に生きている人間ではなく、死んでもなお愛を与え続けることができる、「生
きた人間を超越したもの」なのです。

 ところで、他人に愛を与えるためには、その前にまず「自己愛」を持たなければなりま
せん。自己否定に陥っていては、他人を愛することなど出来ないからです。
 そして自己愛を持つためには、その前にまず、何か「大いなる存在」に自分が受け入れ
られ、愛される必要があるのです。

 私は「大いなる存在」に、
 すべてを受け入れられている。
 無条件に愛されている。
 だから私は、
 生きていて良いのだ!
 存在しても良いのだ!

 と、心の底から思うことが出来てはじめて、自分の存在を肯定すること、つまり自己愛
を持つことができるのです。
 つまり、「大いなる存在」から愛を与えられてはじめて「自己愛」を持つことができ、
自己愛を持つことが出来てはじめて、他人に愛を与えることができるのです。

 人類は、この「大いなる存在」を求めに求めて、ついに「神」や「仏」の認識にたどり
ついたのでしょう。
 私たちに「無限の愛」を与えてくれるもの。
 私たちを「無限の愛」で包みこみ、すべてを受け入れてくれるもの。
 そのような存在として、人々は「神」や「仏」を信仰したのだと思います。

 しかし時代が経つにつれて、神や仏の本来の意味が、ねじ曲げられてしまいました。
 テロや戦争を煽り立てるような「神」。
 人々から金を巻き上げるような「仏」。
 これらは、後世の人間の勝手な思わくによって、ねじ曲げられた「神」や「仏」なので
す。そのため現代では、神や仏を安心して信仰することが、出来なくなってしまいました。

 それで私は、「神の愛」や「仏の慈悲」に代わるものとして、「大生命の大愛」を提唱
しているのです。
 大愛とは、
 40億年もの長い間、この地球に「生命」を存在させ続けてきた愛。
 すべての生命を、生きられるだけ生かそうとする愛。
 すべての生命の幸福を望む愛。
 親子、家族、群れ、共生関係など、生物どうしの中に存在する愛のすべて。
 地球の生命界に充満している愛・・・。
 つまり大愛とは、「生命の存在を肯定する愛」なのです。この大愛は、あくまでも「生
命の法則」や「自然の法則」に則ったものです。だから、人間の勝手な思わくによる「ね
じ曲げ」が入り込みません。その点が、「神」や「仏」を信仰するより安全なのです。

 ところで私は、大愛について次のようなイメ-ジを持っています。
 優しくて温かい、愛の光や波動のような・・・。
 小春日和の暖かな野原のような・・・。
 まるで空気のように自分を包み、息をすると吸い込んでしまえそうな・・・。
 天にも地にも、あらゆる所に存在しているような・・・。
 動物にも植物にも、あらる生命の中に、その片鱗が見え隠れするような・・・。
 と、いうようなイメ-ジです。このような想像をあまりにも広げすぎると、私が勝手に
想像した「神」になってしまいそうなので注意が必要です。しかしながら私は、大愛につ
いてそのようなイメ-ジを持ってるのです。

 大生命は、私たちを「無限の愛」で包みこみ、すべてを受け入れてくれます。
 だから私たちは安心して、大生命に「無限の愛」を求めて良いのです。
 大生命こそが、私たちの「求める愛」を十分に満たしてくれる存在なのです。


30章 大生命と神
 大生命は、地球のすべての生命を育んできました。
 すべての生命は、大生命の「大愛」に抱かれ、生かされています。もしも「大愛」が存
在しなかったら、酸素も食料も存在せず、どんな生命も生きることが出来ません。

 大生命は、この地球に「生命」というものが誕生して以来、40億年もの間ずっと、
「限りなく大きな愛」をすべての生命にそそいで来ました。つまり大生命は、「無限の愛
の源」なのです。
 そしてまた、第1部の3章でお話しましたように、大生命は「生きる拠り所」でもあり
ました。
 このように大生命は、「無限の愛の源」や「生きる拠り所」としての役割をします。そ
してそれは、神(あるいは仏)の役割とまったく同じです。

 つまり大生命は、神と同じ役割をするのです。
 しかし、そうは言っても、大生命は神のように見たり触ったり出来ないものではなく、
「地球の生態系」として見ることも触わることもできます。
 動物や植物を見たり触ったりすることは、大生命を見たり触ったりすることです。そし
てそもそも、私たち自身が、すでに大生命の一部なのでした。
 だから、「神の存在」を信じることが出来ない人でも、「大生命の存在」ならば、認め
ることが出来るのではないでしょうか。
 そして「大生命」は、あくまでも「生命の法則」や「自然の法則」に則ったものであり、
人間の勝手な思わくによって、ねじ曲げられることがありません。
 だから、「神」を信仰することに不安を感じる人でも、「大生命」ならば、安心して身
を任せることが出来るのではないでしょうか。

 ところで、「大生命」と「祈り」の関係について、ここで少し考えてみたいと思います。
 誤解を恐れずに言えば、私は、大生命に対して「祈り」を捧げても良いと考えています。
 しかしここでいう「祈り」とは、「大愛を心と体で感じとり、大生命に感謝の気持ちを
もつこと」です。

 たとえば大生命に対して、
 「病気や怪我が直りますように」とか、
 「お金が儲かりますように」
 「奇跡が起こりますように」
などと祈っても、まったく意味がありません。なぜなら大生命の働きは、あくまでも「生
命の法則」や「自然の法則」に則ったものであり、それを超越した「奇跡」など起こせる
はずがないからです。

 しかし、大生命に対して「限りない感謝の気持ち」を持つことは、べつに変なことでは
ありません。
 つねに呼吸ができること。
 毎日の糧が与えられること。
 たくさんの生命に支えられ、自分が「生かされている」こと。
 これらを心と体の全体で実感し、大生命に感謝の気持ちを捧げるのは、まったく変なこ
とではないのです。

 大生命の「大愛」に抱かれ、「生かされている」こと。
 そしてそれに、限りない感謝の気持ちを起こすこと。
 つまり「大生命に祈りを捧げること」は、生命を肯定するために必要なことだと私は考
えています。

 大生命は、「無限の愛の源」です。
 大生命は、「生きる拠り所」です。
 このように大生命は、神と同じ役割をします。
 しかし大生命は、神とちがい、
 見ることも触ることもできます。
 人間の勝手な思わくも入り込みません。
 だから私たちは、
 安心して大生命に身をまかせることが出来るのです。


31章 真の生命
 私は、「真の生命」と言うものを、心の底から実感するときがあります。
 何というか、「生命力」とか「生命のエネルギ-」と言えるようなものが、心にも体に
も満ち満ちて来るのです。
 とにかくそれは、「今までの私は、『生命』というものを持っていなかったのではない
か?」と、疑いたくなるほどの心境です。

 ところで、自己否定に苦しんでいたときの私は、瞑想によって思考を停止させると、何
かわけの分からない漠然とした不安や焦燥を感じていました。それを21章で、「根源的
な苦」と呼びました。そしてさらに瞑想を深め、その「根源的な苦」をも滅却してしまう
と、たしかに「安らぎ」を感じることができました。しかしその安らぎは、何か生命のエ
ネルギ-を失った、生きているのか死んでいるのか分からないような、そんな「虚ろな安
らぎ」だったのです。
 だから私は、「根源的な苦は、生命の原動力である!」と考え直し、それをも滅却して
しまうことは、「生命の肯定」に反すると考えていました。

 しかし今は、それと全くちがう心境になって来たのです。
 今の私は、瞑想によって思考を停止させると、何かわけの分からないエネルギ-が、心
と体に満ち満ちて来るのです。頭に心地のよい「うずき」を感じ、体の全体が「ジンジン」
として来ます。そして、心の中が喜びでいっぱいになるのです。
 とにかく、「今ここに自分が存在していること」が、嬉しくて嬉しくて仕方がありませ
ん。「根源的な苦」とはまったく逆の、「根源的な喜び」と言えるようなものを感じるの
です。
 さらに瞑想が深まると、精神が「ギュ-ッ」と高いレベルの一点に集中していきます。
その精神集中は、とくに努力をしなくても自然に行われ、精神がどんどん高まって行きま
す。そしてついに、たいへん大きな「至高の喜び」と言えるものを感じるのです。
 言葉は変ですが、「脳ミソが裏返る」というか、「自分の脳の構造が変わってしまった
のではないか?」と、疑いたくなるほどの喜びと幸福感です。「恋愛」の感情と似ていま
すが、それよりもずっと大きく、ずっと深くて充実した喜びです。
 このように精神が高まった状態では、「愛の心を生じさせよう!」などと意識をしなく
ても、心の中が愛でいっぱいになります。
 また、わざわざ肯定的な考え方をしようとしなくても、肯定的な考えばかりを、するよ
うになります。
 あるいは、否定的な考えをやめようとしなくても、否定的な考えなど、する気が起こら
なくなります。それは私が以前、「生命の否定」に取りつかれていたとき、少しでも気を
ゆるめれば否定的な考え方ばかりしていたのとは、まったく反対の精神状態です。

 これが「真の生命」というものに違いない! という確信が、私の中に生まれてきまし
た。今までの私は、「真の生命」を持っていなかったのではないか? と、疑いたくなる
ほどです。それほどに、「自分は本当に生きている!」という実感がするのです。
 「真の生命」を得ると、わざわざ「生命を肯定しよう!」などと必死にならなくても、
無意識的に生命が肯定されます。そして、生きるエネルギーが自然に湧いてきます。
 それは、真の生命には「生命を肯定する働き」というか、「生命力を増大させる作用」
があるからだと思います。今になってみれば、以前の私が「生命の否定」に取りつかれて
いたのは、実は「真の生命」を失っていたからではないかと、感じるようになりました。

 ところで「真の生命」とは、「肉体として生存していること」ではありません。心の底
と体の芯から湧きおこってくる、生命のエネルギ-、生きる力の根源、生命の根源的な力
のことです。
 この、「真の生命」の正体とは、いったい何なのでしょう?
 私は、生命肯定の努力を毎日つづけていると、心の奥深くの無意識のところ、つまり
「深層心理」が、生命を肯定するようになるのだと思います。つねに生命を肯定をしてい
ると、ついにそれが「深層心理」に浸透し、定着するのでしょう。そして特に意識をしな
くても、無意識的に、「深層心理」が生命を肯定するように働きだすのだと思います。
 逆に、「生命の否定」に取りつかれていたときは、「深層心理」が生命を否定するよう
に働いていたのだと思います。だから少しでも気をゆるめると、否定的な考えばかりが生
じていたのでしょう。
 つまり、深層心理にこびりついていた「根源的な苦」が、「根源的な喜び」に置き換わっ
たこと。それが、「真の生命」の正体だと私は思うのです。

 生命肯定の努力は、決して無駄ではありません。「生命の肯定」は、一日一日と強く大
きくなり、心の奥底にしっかりと根づいて行きます。そして誰でもいつしか、不動の生命
の肯定、つまり「真の生命」を得ることが出来るようになるのです。




 つづく



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