どうか生きることを愛して下さい 4
2024年2月18日 寺岡克哉
第2部 自己愛から愛の完成へ
17章 生命の肯定と生命の否定
生命の肯定とは、
「生きることは素晴らしい!」
「この地球に、生命が存在することは素晴らしい!」
と、心の底から実感することです。
生きる意味や生きる目的をもち、生きがいを感じることです。
生命を輝かせて、いきいきと生きることです。
「生命」というものの存在に、大きな喜びと、感謝の気持ちを感じることです。
つまり「生命の肯定」とは、生命の存在を、善いこと、素晴らしいこと、喜ばしいこと、
ありがたいこととして、肯定することなのです。
これまでお話してきた「自己愛」は、「自己の生命」を肯定することです。だからこれ
も「生命の肯定」のひとつです。
「生命の肯定」は、私の人生における最大の目的です。
私は何としても・・・ 人生のすべてを懸けてでも、「生命を肯定したい!」のです。
私が、「愛」や「生命」や「生きること」について色々と考えたり、文章を書いたりす
るのも、生命を肯定したいからです。もちろん、この本を書くいちばんの目的も、生命を
肯定することにあります。
私がそこまでして「生命の肯定」にこだわるのは、「生命の否定」、つまり厭世的な考
え方にいつまでも陥っていては、「百害あって一利なしだ!」ということを、心の底から
思い知ったからです。
私は以前、「生命の否定」にはげしく取りつかれ、生きるか死ぬかという、ひどく辛い
目に会ったのです。
その元凶の「生命の否定」とは、
たとえば・・・
「生きることに意味なんかない!」
「生きることは、不幸と苦しみ以外の何ものでもない!」
「みにくい争いを永遠にくりかえし、怒りと憎しみ、そして悲しみに満ちあふれた生命
・・・。そんな生命など、この世に存在しない方がましだ!」
「いっそのこと、すべてが殺し合って、生命など滅んでしまえばよいのだ!」
と、いうような考え方に取りつかれてしまうことです。そのような心の状態を、私は「生
命の否定」と呼んでいるのです。
そしてまた・・・
「自分には、生きる価値も資格もない!」
「自分が生きているのは、みんなに迷惑をかけるだけだ!」
「自分など、生まれて来なければよかった!」
「自分なんか死んだ方がましだ!」
と、いうような思いに取りつかれてしまう「自己否定」もまた、生命の否定の一種です。
というのは、自己否定とは「自己の生命を否定すること」だからです。
いつまでも、そのような「生命の否定」に取りつかれていては、生きることが辛くなり、
不幸になるばかりです。
私は、「生命の否定」に苦しんでいる人の一人でも多くが、「何とかして生命の肯定が
できますように!」と、心から祈っています。
18章 生命の肯定とは愛である
私は、「生命の肯定」とは「愛」であると考えています。
つまり、生命を肯定する感情や、生命を肯定しようとする意志、あるいは生命を肯定す
るための行動が、「愛」であると考えているのです。
たとえば、
異性と結ばれて子供を作ること。
生まれた子供を守り育てること。
飢え、寒さ、病気、怪我、貧困などで苦しんでいる人々に、手をさしのべて助けること。
苦悩や、悲しみに打ちひしがれている人の心を救うこと。
教育や文化、学問、芸術などを普及させること。
世界の平和を維持すること。
絶滅しそうな動物や植物を保護すること。
地球の自然環境を守ること。
これら、新しい生命を生み育てることや、苦しんでいる生命を救うこと。あるいは、平
和、安全、食料、物資、医療、教育、文化、自然環境など、生命が生きて行くための条件
をととのえること。
そのような、生命の存続と発展を求める(つまり生命の存在を肯定する)、生命活動の
すべてが「愛」なのです。
優しさ、思いやり、慈しみ、安らぎ、哀れみ、利他の心、援助、支援、救済・・・。こ
れら、他の生命が幸福になることを願い求める感情や行動は、すべて「愛」の仲間です。
誰かを愛しているときや、他の生命を愛しているとき。つまり、自分の心が「愛」に満
たされているときは、
「生きることは素晴らしい!」
「この地球に、生命が存在することは素晴らしい!」
と、心の底から実感します。それは愛の感情が、「生命を肯定する感情」だからです。
その反対に、生命の否定とは「憎しみ」です。
自己否定は、自分の存在を憎むことです。
生命の否定は、生命の存在を憎むことです。
傷害、殺人、テロや戦争による大量虐殺・・・。これら、生命を傷つけ殺そうとする行
為、つまり「生命の存在を否定する行為」は、すべて憎しみが動機となっています。
怒り、妬み、嫉妬、侮蔑なども、「生命の否定」を招くという点では、憎しみと同じ仲
間です。
このように、生命の否定が「憎しみ」であることを考えれば、生命の肯定が「愛」であ
ることを納得してもらえると思います。
「生命の肯定」とは、生きることを愛することであり、生命の存在を愛することなので
す。
しかしながら注意が必要です!
なぜなら、世間一般で「愛」と呼ばれるものの中には、人々に苦しみや不幸をまき散ら
すものも、数多く存在するからです。
たとえば、エゴイズムをむき出しの自己愛や、恋愛感情を貪るだけの恋愛、性的快楽を
貪るだけの性愛などです。
もっとスケ-ルの大きな例では、宗教戦争を起こすような「神への愛」や、世界大戦を
起こすような「国家への愛」などがあります。これらのものはみな、「間違った愛」と言
えるものです。
愛には、「正しい愛」と「間違った愛」があるのです。だから何かを愛するときは、間
違った愛し方でなく、正しい愛し方をしなければなりません。
ところが困ったことに、「正しい愛」と「間違った愛」は、愛の「感情」としては全く
同じものです。愛するもののためならば、自分の命さえ犠牲にすることがあるのも同じで
す。愛する対象(人、国家、神など)も同じです。だから、「正しい愛」と「間違った愛」
は、なかなか区別がつきにくいのです。
しかし「間違った愛」は、愛するもののことしか考えません。それ以外のものは全く無
視したり、さらには憎しみ向けることさえあります。そのため「間違った愛」は、大きな
苦しみと不幸を人々にまき散らすのです。
そして、このことにより、「正しい愛」と「間違った愛」を見分けることができます。
自分の欲望や快楽のためならば、他人を苦しめたり、最悪の場合は人を殺してしまうよ
うな、自分勝手で利己的な「自己愛」。
家庭を崩壊させたり、妻子を捨てたり、妊娠中絶で胎児を殺したり、殺傷事件を起こし
たり、自殺や心中を招いてしまうような「恋愛」や「性愛」。
国家の威信や国益を守るために戦争をし、他国の人間をたくさん殺してしまうような
「国家への愛」。
自分たちの信仰する神を崇拝するあまり、他の神を信仰する人々を抹殺しようと企むよ
うな「神への愛」。
結局これらの「間違った愛」は、暴力や殺人や大量虐殺・・・ つまり「生命の否定」
を招いてしまいます。
「間違った愛」は一見すると、自分や自分たちの生命を、いちばん肯定しているように
見えます。しかし実は、自分や自分たちの怒りや憎しみを駆り立て、暴力や闘争を自らま
ねき、自分や自分たちをも苦しめているのです。
他の生命を否定しておきながら、自分や自分たちの生命だけを肯定することはできませ
ん。生命には、そのような法則が存在するのです。
古代インドで「利他」や「慈悲」の思想が説かれたり、キリストが「敵を愛せ!」とま
で言ったのは、そのためではないかと思います。
生命の肯定とは「愛」です。
しかし、世間一般で言われている愛のすべてが、生命を肯定する訳ではありません。
生命を否定するような「間違った愛」ではなく、「正しい愛」こそが生命を肯定するの
です。
19章 生命に意味を与えるのも愛である
「死ぬよりは、生きる方が良いのだ!」
「生まれて来ないよりは、生まれてきた方が良いのだ!」
「やはり生命は、存在しないより、存在した方が良いのだ!」
と、確信をもって言える根拠があるとすれば、それは、「生命に愛が存在すること」以外
にないと私は思います。
つまり、「生命」というものの存在に、意味や価値を与えているものが「愛」なのです。
(ところで、この場合の「愛」とは、前でお話した「生命を肯定する正しい愛」である
のは言うまでもありません。)
優しさ、慈しみ、思いやり、心の温かさ、助け合い・・・。これら生命のもつ「善い性
質」は、すべて「愛」から生じています。
「生きることは素晴らしい!」
「この地球に、生命が存在することは素晴らしい!」
と思うことができるのも、生命に「愛」というものが存在するからに他なりません。
逆に、もしも生命に「愛」というものがまったく存在しなかったら、生きることや生命
の存在は、「苦しみ」と「悪」以外の何ものでもなくなってしまいます。
苦悩、苦痛、恐れ、不安、焦燥、憎悪、嫉妬、怒り、暴力、闘争、殺し合い、弱肉強食
の生存競争、飢え、怪我、病気、老い、死・・・。もしも生命に「愛」がなかったら、生
命のもつ性質は、悪くて嫌なものばかりになってしまいます。そんな生命ならば、存在し
ない方がよほどましでしょう。
生命に「愛」が存在しなかったら、苦しみに耐えて生きる理由も、生命が存在した方が
良いといえる根拠も、すべて失ってしまいます。日々の生きる苦しみに耐えてもなお、
「生きることには価値があり、生命の存在には意味があるのだ!」と納得することができ
るのは、生命に「愛」というものが存在するからなのです。
「愛」は苦しみを乗り越えます。愛があれば、苦しみに耐えることができます。何かを
強く愛していれば、「苦しみ」をものともしません。愛するもののためならば、苦しみに
耐えて生きることがペイするのです。
さらにそれどころか、愛するもののためならば、苦しみや苦労が、生きがいや喜びにさ
えなり得るのです。
たとえば、
家族のために働く父親や、子供の面倒をみる母親。
病気や怪我で苦しむ人々を救う医師たち。
難民を助けるために奮闘する人々。
平和を守るために働く人たち。
地球の自然環境や、絶滅しそうな生物を保護する人たち。
これらの人々は、肉体や精神の疲労、ストレス、苦悩、苦痛など、日々の苦労は絶えな
いと思います。しかし、親が子供を本当に愛していれば、あるいは、助けるべき人々や、
守るべき動物や植物を心から愛していれば、自分の仕事にやりがいや生きがいを感じてい
ることと思います。
それは、他の生命を「愛すること」によって、自分の生命に「意味」が与えられるから
です。
自分の子供を愛し、他の人間を愛し、他の生き物を愛すること。そしてそのために、苦
労や努力を惜しまないこと。そうすることによって、自分の存在にも「意味」が与えられ
るのです。
逆に、自分の子供を愛さず、他の人間も、他の生き物も愛さなければ、「なんで子供や
他人や、他の生命のために、自分がこんな苦労をしなければならないのだ!」という思い
に、取りつかれてしまうでしょう。
また、自分を愛していなければ(つまり自己否定に陥っていれば)、「なんで、こんな
苦しい思いをしてまで生きなければならないのだ!」と、思ってしまうのです。
「愛するもの」を持たないと、何のために生きているのか分からなくなります。それは、
苦しみに耐えて生きることに、意味が無くなってしまうからです。
もしも、生命に「愛」というものが無かったら、生きることは地獄のような苦しみだけ
です。そして、この地球に生命が存在することは、無限につづく苦しみの連鎖でしかあり
ません。
それでは、生きる意味も、生命が存在する意味も、すべて失ってしまいます。
ゆえに、生きることに意味や価値を与えているもの、そして、生命の存在に意味や価値
を与えているものが、「愛」であると言えるのです。
20章 欲望や快楽は生命の意義になりえない
ところで・・・
「愛」なんか無くてもいい!
生きているうちに欲望や快楽を思いっきり満たし、やりたい放題に人生を楽しめば、そ
れでいいではないか。それが生きる意味であり、生きる目的なのだ!
他人に対する思いやりなど、自分の人生を楽しむのに邪魔なだけだ! 生命は、自分の
欲望や快楽をできるだけ満たせば良いのであって、それが生命の目的だし、生命の存在す
る意義なのだ。生命の世界は弱肉強食が鉄則だ。情けなど無用! ・・・。と、このよう
な考え方をする人も、けっこう多いのではないでしょうか?
じつは、このような考え方は現代だけでなく、大昔から人類のなかに根強くありました。
というのは、この考え方にも、それなりの理由があるからです。
なぜなら生物は、まず第一に、自分の体を成長させたり、自分の生命を維持しなければ
ならないからです。そして、体が十分に成長したら子供をつくり、子孫を残さなければな
らないからです。
食欲は、体を成長させたり生命を維持するためにあり、性欲は子孫を残すためにありま
す。だから、食欲や性欲などの「快楽」を求めることは、生命の目的に適っているのです。
また、金や地位などへの欲望も、自分や家族の生活を安定させ、それを守るためにあり
ます。だから、あるていどの「欲望」を満たすことも、生命の目的に適っているのです。
自分の生命や子孫を維持するための快楽。健康で安全な生活を守るための欲望。これら
は、「生命の肯定」にとって必要不可欠なものです。それを否定することは出来ません。
しかし、限度をこえて欲望や快楽を求めれば、逆に「生命の否定」を招いてしまいます。
なぜなら、喜びや快楽が消えさり、「苦しみ」が生じるからです。
いちばん分かりやすいのは、食欲や性欲などの「肉体的な快楽」です。これら肉体の快
楽には、「生物としての限界」があります。だから、その限界を越えて食欲や性欲を求め
ても、もはや喜びや快楽などは得られず、「苦痛」以外の何ものでもなくなってしまいま
す。
また、金や地位などへの欲望も、それらを過度に求めれば「苦しみ」に変わってしまい
ます。というのは、金や地位を得れば得るほど、さらに多くの金や、高い地位が欲しくな
るからです。この「無限の欲望」ともいえる苦しみが、どんどん強く大きくなって行くの
です。
また、金や地位を得れば得るほど、今度はそれを失うことの恐れや不安が大きくなりま
す。この苦しみもたいへん大きなもので、金や地位を失って自殺をする人々が、まったく
後を絶ちません。
ところで、自分だけの欲望や快楽を貪欲に求めれば、かならず他の生命に「しわ寄せ」
が行ってしまいます。そして、そのことによっても「苦しみ」が生じます。
自分の欲望や快楽を満たすためには、多かれ少なかれ、他の生命との「争い」が起こっ
てしまいます。これは、食物連鎖や生存競争からはじまって、人間どうしの争いや、国ど
うしの争いまで、ありとあらゆる所に存在します。受験競争や出世競争なども、その例外
ではありません。
しかしこれは、「生きるため」にどうしても必要なことなのです。とても嫌なことだけ
ど、生命が存在し続けるためには、生命どうしの争いはどうしても避けられません。
たいへん悲しいことですが、たとえば「食物連鎖」を無くしたら、あらゆる生命が生き
られなくなってしまいます。「生きる」ということには、他の生命に苦しみを与えてしま
う所が、どうしても存在するのです。
だから、生きるために必要な最少限の争いは、嫌々ながらも互いに認め合っているので
す。地球の生命全体が存在し続けるためには、それがどうしても必要だからです。
そのような状況でなので、一個の生命(たとえば一人の人間)が、あまりにも貪欲に欲
望や快楽を求めれば、周りの人々からの怒りや憎しみ、恨み、妬み、反感などが大きくな
るのです。
一人だけが欲望や快楽を独占すればするほど、ほかの多くの人々を敵に回します。そし
て争いが多くなり、しかもそれは激しくなって行きます。最悪の場合は、自分の命さえ狙
われてしまうでしょう。そして、そのような人間は、いつも人々から憎まれているので、
周りの人間が信用できなくなります。だから、不安やストレス、心配、恐怖などがつねに
襲ってきます。
このように、自分一人だけの欲望や快楽を満たすために、あまりにも他の生命を苦しめ
れば、結局それは、自分自身をも苦しめることになるのです。
そのいちばん代表的な例は、権力者や独裁者です。自分一人だけの欲望や快楽を得るた
めに、あまりにも民衆を苦しめた権力者や独裁者は、かならず不幸な末路をたどっていま
す。たとえば、民衆の怒りが爆発して反乱や革命がおこり、暗殺されたり、自殺や処刑に
追いこまれたりしています。
生命には、そのような法則が働いているのです。一個の生命だけがあまりにも利己的に
なり、その種族全体に悪影響を及ぼすようになると、そのような生命個体の存在は許され
なくなるのです。
さらには、一つの種族があまりにも利己的になり、地球の生命全体に悪影響を及ぼすよ
うになると、そのような種族の存在も許されなくなります。
たとえば、ある生物が大量発生して生態系を壊しそうになると、生態系からさまざまな
力や作用が働いて、その生物は大量に死んでしまいます。それは、たとえ「人類」といえ
ども、決して例外ではないでしょう。しかし、そのような法則が働いているからこそ、
「地球の生命」は40億年も存在し続けることができたのです。
ところで、周りの人々の反感を買わなかったとしても、欲望や快楽を人生の目的にすれ
ば、かならず「生命の否定」に取りつかれてしまいます。
なぜなら、欲望や快楽を得るための努力は、すべて「自分だけのため」に行なっている
からです。そして「自分」とは、いつか死んで必ず消滅してしまうものだからです。
これでは、人生における努力のすべてが、「死んで消滅するため」に行なわれているこ
とになります。それで生きる意味を失い、生命の否定に取りつかれてしまうのです。
だから、人生のほとんどを欲望や快楽を得ることに費やしてしまった人は、晩年になっ
てから大変に苦しみます。そしてだんだんと厭世的になり、不機嫌になって行きます。
人間は、「死んでもなお、消滅しないもの」のために生きなければなりません。つまり、
第1部の8章でお話したような、「生命の仕事」のために生きなければならないのです。
そうしなければ、「生命の否定」に必ず陥ってしまいます。
自分勝手な欲望や快楽を求めることは、「間違った自己愛」といえるものです。結局は
苦しみを大きくし、生きる意味を失って、「生命の否定」に取りつかれてしまいます。
ゆえに欲望や快楽は、生命の意義になりえないのです。
21章 無限の欲望と根源的な苦
人間は、「無限の欲望」を持つがために、欲望や快楽を限りなく求めてしまいます。そ
してそれが、いろいろと「愚かな苦しみ」を招いています。
たとえば人間は「食べる快楽」を限りなく求め、肥満、糖尿病、心臓病などの苦しみを
招いています。
あるいは「性的な快楽」を限りなく求め、家庭崩壊、妊娠中絶、性病の蔓延、性犯罪な
どの苦しみを招いています。
またあるいは「金と権力」への限りない欲望のために、あらゆる所で争いごとが起こっ
ています。そして最悪の場合は、戦争までやってしまいます。
本当にこれらは、まったく愚かな行為としか言いようがありません。人間が「無限の欲
望」さえ持たなければ、人類はもっと平和に生きられるはずなのです。
しかしなぜ、人間は「無限の欲望」を持つのでしょう?
それは、人間に「根源的な苦」というものが存在するからだと、私は考えています。前
にもすこし触れましたが、「根源的な苦」とは、いつも人間につきまとう何か得体の知れ
ない、漠然とした恐れや不安や焦燥です。
ところで、人間以外の動物には「根源的な苦」が存在しません。だから動物は、食物が
十分にあり、怪我や病気がなく、外敵の危険もなければ、なんの恐れも不安も感じません。
いたって安心し、平穏無事に生きています。
しかし、人間はちがうのです!
人間だけは、衣食住が満たされ、怪我も病気も外敵もない「生物として理想の状態」で
あるにもかかわらず、なにか得体の知れない漠然とした不安、空しさ、焦燥、恐怖などを
強く感じてしまいます。それが「根源的な苦」なのです。
「根源的な苦」は、どんなに欲望や快楽を満たしても、絶対に消滅することがありませ
ん。
なぜなら、それが「根源的な苦」の本質だからです。人間は、あらゆる種類のどんな欲
望を満たしても、その欲望を満たし終えたとたんに、空しさや焦燥を感じはじめます。つ
まり、どんなに欲望や快楽を満たしても、「根源的な苦」が新しく生じるだけなのです。
だから「根源的な苦」を誤魔化すためには、ある一つの欲望を満たし終えたら、すぐに
次の欲望を求めるというように、欲望をどんどんエスカレ-トさせるしか方法がありませ
ん。そのため根源的な苦は、「無限の欲望」の原因となっているのです。
どこまでも際限のないエゴイズムや、永遠に尽きることのない闘争・・・。これら、ほ
かの動物に存在しない「愚かな苦しみ」はみな、「根源的な苦」によって生じる「無限の
欲望」が原因となっているのです。
ところで、いくら欲望を満たしても「根源的な苦」が消滅しないことは、人類の歴史が
証明しています。なぜなら、人類の歴史から争いごとが消えることは、絶対になかったか
らです。
権力や利権を得るための闘争、政争、戦争・・・。いろいろな時代のさまざまな人間が、
力の限りをつくして欲望を満たそうとしました。しかし、それによって「根源的な苦」を
消滅させることができた人間は、だれ一人として存在しないのです。
欲望の追求によって、「根源的な苦」を消滅させることは絶対にできません。たとえ世
界中の国を手に入れても、世界中のお金をひとり占めにしても、「根源的な苦」は絶対に
消えて無くならないのです。もし、そのような望みが叶ったとしても、やりきれない不安
や焦燥が、やはり生じてしまうでしょう。
このように、「根源的な苦」によって生じる「無限の欲望」は、人類の悲劇の根源とも
いえます。しかしその一方で、それは人類が発展するための原動力でもあるのです。
人間以外の動物は、「無限の欲望」を持ちません。だから欲求が満たされれば、ほかに
何もしようとしません。
しかし人間は、「無限の欲望」を持つからこそ、文明や科学や芸術を作り上げることが
できたのです。科学を発達させて、人類が初めて宇宙に飛びだした生物になったのも、人
間だけが「無限の欲望」を持つからです。
たしかに「無限の欲望」は、人類の悲劇の根源です。しかしそれは、人類の発展の原動
力でもあるのです。だから、「無限の欲望が存在すること」が悪いのではありません。そ
うではなく、「無限の欲望によって、苦しみと悪を増大させること」が悪いのです。
無限の欲望によって、エゴイズムを限りなく増長させたり、争いごとを限りなく激化さ
せるから、「苦しみ」と「悪」が無限に増大するのです。
そして、
「生きることは、苦しみ以外の何ものでもない!」
「生命の存在は悪である!」
「だから、生きることは無意味だし、生命など存在しない方がよいのだ!」
というような、「生命の否定」に取りつかれてしまうのです。
これを避けるためには、無限の欲望を「苦しみと悪の増大」に向けるのではなく、「喜
びと善の増大」に向ければ良いのです。つまり、無限の欲望を「生命の肯定」へと向ける
のです。
たとえば、平和の維持、飢えや貧困の根絶、医療の充実、教育の普及、芸術や文化の交
流、研究や学問の発展、自然環境や野生動物の保護・・・等々。
これら、「生命を肯定する活動」に無限の欲望を向けるのです。そうすれば、いくら欲
望を追い求めても、「生命の否定」に取りつかれることはありません。むしろ欲望を追い
求めれば求めるほど、どんどん生命が肯定されていきます。
正しい方向へと向けられた無限の欲望は、決して悪いものではありません。むしろそれ
は、とても良いものであり大切なものなのです。なぜならそれは、人間が生きるための原
動力であり、人類が発展するための原動力だからです。
もしも、「無限の欲望」や「根源的な苦」をすべて滅却してしまったら、たしかに「苦
しみ」は消滅するでしょう。しかしそれでは、生きる意欲(生きる原動力)さえも全て失っ
てしまうのです。そして、生きているのか死んでいるのか分からないような、「生ける屍」
のような状態になってしまいます。
「根源的な苦」によって生じる「無限の欲望」は、生命を否定する根拠ではありません。
むしろそれは、生命を肯定するための原動力であり、人間として生きるために必要不可
欠なものなのです。
22章 生命の肯定は自己愛から始まる
前にお話しましたが、生命の肯定とは、
「生きることは素晴らしい!」
「この地球に、生命が存在することは素晴らしい!」
と、心の底から実感し、いきいきと生きることでした。つまり、生きることを愛し、生命
の存在を愛することでした。
しかし、一体どうやったら「愛すること」ができるのでしょう? 実は、これがたいへ
ん難しいのです。とくに、「生命の否定」に取りつかれている者にはなおさらです。なぜ
なら、生命の存在を「憎んでいる」者には、「愛すること」など、とても出来ないからで
す。
・・・むかし私は、「生命の否定」に取りつかれて苦しんでいました。だから、そのよ
うな人の心情がよく分かるのです。
自分が「生命の否定」に取りつかれると、どうしても他の生命の幸福をうらやみ、妬み、
憎んでしまいます。そして、他人が不幸になったり苦しんだりするのを、自分の喜びにし
てしまいます。
だから「愛するため」には、その前にまず「生命の否定」をやめなければなりません。
つまり、自分を憎むことをやめ、他人を憎むことを止めなければならないのです。
その中でもとくに、自分を憎むのをやめること、つまり「自己否定をやめること」が最
も大切で、いちばん最初にやらなければならないことです。
なぜなら自分を憎んでいると、他の生命をも憎んでしまうからです。だからまず始めに、
「自己否定」をやめないことには、「生命の否定」もやめることが出来ないのです。
私にも心当たりがあるのですが・・・
「自己否定」に取りつかれると、「自分は不幸な人間だ!」と激しく思い込んでしまい
ます。だから、幸福そうな人間を許してはおけません。「自分がこんなに不幸で苦しんで
いるのに、他人が幸福なのは許せない!」という思いに、凝り固まってしまうのです。
だから自己否定に取りつかれた人間は、周りの人間も不幸でないと気がすみません。そ
して、他人を傷つけるような悪いうわさを流したり、他人の幸福の足をひっぱったり、
「いじめ」を行ったりしてしまいます。
また、自己否定に取りつかれた人間は、自分に自信がないのに自意識やプライドだけは
強く、つねに自分と他人を比べてコンプレックスを持ってしまいます。この理由からも、
自己否定に取りつかれた人間は、自分にコンプレックスを感じさせる周りの人間を、とて
も強く憎んでしまうのです。
私は思うのですが・・・
あまりにも激しく自己否定に取りつかれると、この「周囲に対するやりきれない憎悪」
がついに爆発し、あたり構わず他人にぶつけてしまうのではないでしょうか。
そして、家庭で暴力をふるったり、子供を虐待したり、通り魔による殺傷事件を犯して
しまうのではないでしょうか。
また「動物の虐待」なども、この「周囲に対するやりきれない憎悪」を、ほかの生き物
にぶつけているのではないでしょうか。
だから「自己否定」に取りつかれると、「生命の否定」をやめることが出来ません。ま
してや、自分や他の生命を「愛すること」など、とても出来るわけがないのです。
「自分を憎むこと」をやめれば、他の生命を憎むこともやめられます。そして自分を愛
せるようになり、さらには他の生命も愛せるようになるのです。
つまり「自己否定」をやめれば、「生命の否定」もやめることができます。そして「自
己肯定」ができるようになり、さらには「生命の肯定」もできるようになるのです。
生命の肯定は、自己愛から始まります。
自分を愛することが出来てはじめて、他人や、他の生命を愛することが出来るようにな
るのです。この本の第1部で「自己愛をもつための方法」を色々と考えたのはそのためで
す。
自分を愛することができれば、「生きる力」や「生きる勇気」が湧いてきます。生きる
エネルギーに満ちあふれ、いきいきと生きられるようになります。「生きることは素晴ら
しい!」と、心の底から実感できるようになるのです。
そしてさらに、自己愛が「生命の肯定」へと発展すれば、他人や他の生命をも愛するこ
とが出来るようになります。
この地球に「生命」が存在すること。それが、とても素晴らしいことに思えてきます。
すべての生命が、今この地球で自分と一緒に生きているのが、嬉しくて嬉しくて仕方が
なくなります。そしてそれが、涙が出るほどありがたく感じてきます。
すべての生命の幸福を心から望むようになり、他の生命の幸福が、そのまま自分の幸福
となるのです。
キリストは、「隣人を自分のように愛しなさい」と言いました。しかしこの言葉におい
ても、まずはじめに「自分を愛していること」が、すでに前提となっています。
ゆえに、すべては自己愛から始まるのです。
23章 自己愛と隣人愛の増幅循環
第1部の13章でお話した「自分を愛する努力」を続けることにより、あるていどの自
己愛が持てるようになったら、次はぜひ、「隣人を愛すること」に挑戦してほしいと思い
ます。
なぜなら「自己愛」と「隣人愛」は、お互いに強め合って増幅循環をするからです。こ
れは、第1部の15章でお話した「自己愛のみ」の増幅循環より強力なものです。
そしてやはり、生きる本当の目的である「生命の肯定」を目指すためには、自己愛だけ
に閉じこもっていたのでは不十分です。
なぜなら「自己」とは、いずれ死んで消滅してしまうからです。だから自己愛のみに生
きると、結局、「死んで消滅するため」に生きていることになります。そうなれば、苦し
みに耐えて生きる理由も、生きる意味も、生きる目的も、すべて失なってしまうのです。
というのは、いくら苦しみに耐えて一生懸命に生きても、今すぐに安楽死をしても、結
局「死んで消滅すること」には、まったく変わりがないからです。それならば、わざわざ
苦しみに耐えてまで生きる必要はないでしょう。
だから生命を肯定するためには、「自己の死によって消滅しない生命」のために生きな
ければなりません。つまり人類全体や、地球の生命全体というような、「自己を越えた生
命」のために生きなければならないのです。そのためには、自己愛から隣人愛へ、さらに
は人類愛や、すべての生きとし生きるものに対する愛へと、愛を広く大きくして行く必要
があるのです。
ところで・・・「自己否定」と「他人否定」も、お互いに強め合って増幅循環をします。
(他人を憎み、他人の存在価値を否定することを、ここで仮に「他人否定」と呼ぶことに
します。)
ここではまず、「自己否定」と「他人否定」の増幅循環からお話したいと思います。そ
してその後に、「自己愛」と「隣人愛」の増幅循環と比べてみたいと思います。
これら二つを比較するのは、そのプロセスがよく似ているからです。それらのプロセス
は本質的に同じで、思考や感情の方向だけが違うのです。
だから、「自己否定」と「他人否定」の悪循環に陥っている人でも、ものの見方や考え
方を変えれば、必ずそこから抜けだせるのです。まずそのことを、みなさんに知って頂き
たいのです。
さて、「自己否定」と「他人否定」の増幅循環とは、次のようなものです。
まずはじめに、私が何かの理由で「自己否定」に陥ったとしましょう。すると、不安や
緊張、恐れ、イライラなどの「嫌な気分」が心の中に生じます。
そうすると、その「嫌な気分」が私の顔つきや態度となって表れます。そしてそれが周
りの人々にも伝わってしまい、彼らも「嫌な気分」をあらわにします。
すると今度は、彼らの「嫌な気分」を私が感じとってしまい、私の不安や緊張がさらに
大きくなります。そして周りの人々に対して、怒りや憎しみをぶつけてしまうのです。
「おまえら、いったい何なんだ!」と、いうような気持ちです。
その大きくなった怒りや憎しみが、またもや彼らに伝わってしまいます。そして周りか
ら、さらに強い憎しみが私に向けられてしまうのです。「こいつは目つきも顔つきも悪い
し、なんかムカツクやつだな!」と、周り中からそのような目で見られてしまうのです。
そんな視線を浴びせられた私は、さらに強い憎しみを周りにぶつけるようになります。
このように「自己否定」と「他人否定」は、悪循環をしながら互いに強め合い、どんど
ん大きくなって行くのです。
これと同じように、「自己愛」と「隣人愛」も増幅循環をするのです。(ところで隣人
とは、家族や友人、学校や会社の同僚、町ですれ違う人々など、自分の周りにいる「すべ
ての人」をいいます)。
毎日のように「自分を愛する努力」を続けていると、だんだんと自己愛が持てるように
なります。そうすると、ビクビクとした不安や、ジリジリとする焦燥が消えさり、何とな
く優しい心安らかな気分になります。そのような「優しさと安らぎのムード」に全身が包
まれるのです。
そして、その「優しさと安らぎのムード」は、周りの人々に伝わって行きます。私が自
己否定に苦しんでいた時は、そのことが全く理解できませんでした。しかし、この「優し
さと安らぎのムード」は、本当に周りの人々に伝わるのです! それは例えば、自己否定
に苦しんでいる時のイライラや不安が伝わるのと同じように、「優しさと安らぎのムード」
も周りに伝わるのです。
私の「優しさと安らぎのムード」が周りに伝わると、空気が和やかになり、人々の緊張
がほぐれます。そして、私に向けられていた警戒心を解いてくれます。それは、彼らの表
情や仕種となって表われます。それが自分にも伝わってきます。そうすると、私の緊張も
どんどんほぐれて和やかになります。
何となく嬉しくなり、私の顔が微笑んでしまいます。そしてそれを見た周りの人たちも、
顔に笑みを浮かべます。やがて見知らぬ人なのに、挨拶やちょっとした会話などが始まる
こともあります。
このように「自己愛」と「隣人愛」も、お互いに強め合って増幅循環をするのです。
あるていど自己愛が持るようになったら、次はぜひ、隣人愛に挑戦して下さい。
「生命の肯定」は、自己愛から隣人愛へ、さらには人類愛や、すべての生きとし生きる
ものに対する愛へと、発展して行くからです。
たとえば、世の中との関係をすべて断ち切り、自分だけの世界でやすらぎを求める「世
捨て人」のような生活は、たしかに安楽な生き方かも知れません。
しかしそれは、何か生命の法則に背いているような感じがするのです。やはり生命は、
多少のゴタゴタやトラブルがあっても、他の生命と関わりながら生きるのが、本当の姿だ
と思います。
「生命の肯定」と「生命の否定」は表裏一体です。これらのプロセスは本質的に同じで、
思考や感情の方向だけが逆なのです。だから生命の否定に苦しむ人は、生命を肯定する能
力も必ず持っています。
そしてまた、本当に悩み苦しんだ人でなければ、「心が救われる方法」など、本気になっ
て求めるはずがありません。
「生命の否定」に激しく取りつかれた人は、「生命の肯定」を深く追求できる人なので
す!
24章 隣人愛の具体例
「隣人愛」などと仰々しく言うと、何か「たいへんな自己犠牲をともなうもの」という
感じがして、尻込みをしてしまいそうです。しかし、私がこれからお話しようと思うのは、
そのような仰々しいものではありません。
私のいう「隣人愛」とは、他人に対して、怒りや憎しみ、イライラ、恐れ、不安などの
「悪い感情」を、できるだけ抱かないようにすること。そして他人と争うことなく、平穏
な日々をつとめて守るという、「ささやかな隣人愛」なのです。
私だって、「愛の心」をもっと強く大きくしたいとは、いつも思っています。しかし、
そうそう簡単にできるものではありません。なぜなら、自分のエゴや欲望、臆病、けち臭
さなどが邪魔をしてしまうからです。
たしかに、「自己犠牲もいとわない隣人愛」や「大いなる慈悲の心」を持つことは、人
間として最高の理想です。しかし自分の現実を見ると、それから程遠いことが思い知らさ
れます。
そしてまた、厳しい修行をして是が非でも「神や仏のような心」を持つことよりは、
「ささやかな隣人愛」が人類全体に広がることの方が、すごく価値のあることだと私は思
います。
皆がみな、釈迦やキリストのようになる必要はないのです!
たとえば、「おもしろ半分に弱い者をいじめるのは悪い!」とか、「他人を思いやる心
が大切だ!」というような、「ほんの少しの良心」が人類全体に広がること。それこそが、
たいへんに価値のあることだと私は思うのです。
しかし、それだって簡単なことではありません。すごく難しいことなのです。なぜなら、
「人を殺すのは悪い!」と言うことでさえも、人類全体に浸透していないからです。それ
こそ釈迦やキリストが現れて以来、2000年以上の歳月をかけても、まだ人類全体に浸
透できていないのです!
これは今後の人類の、とても重要な課題だといえましょう。
つぎに、「隣人愛」の具体的な例についてお話したいと思います。具体的な例となると、
やはり、私の個人的な体験をもとにした話になってしまいます。私の狭い体験が、はたし
て皆さんの役に立てるかどうか分かりませんが、少しでも参考になることを願って話して
みましょう。
まず、第1部の13章でお話した「自分を愛する努力」を日々つづけていると、14章
でお話した「自己愛の実感」が訪れるようになります。そうすると、不安や焦燥が消えさ
り、「優しさと安らぎのムード」に、全身が包まれるような感じがします。
この「自己愛の実感」は、始めのうちは数分で消えてしまいます。しかし、自分を愛す
る努力をさらに重ねて行くと、1時間ぐらいは続くようになります。
そのような状態まで自己愛が強くなったら、いよいよ隣人愛に挑戦するときです。家か
ら外に出て、自分の「優しさと安らぎのムード」を、周りの人々に与えるようにしましょ
う。つまり、隣人に「愛」を与えるのです。
しかし「愛を与える」と言っても、なにか特別なことをする訳ではありません。いきな
り他人に抱きついたり、肩を組んだり、握手をしたり、話しかけたりする訳ではありませ
ん。
自分の「優しさと安らぎのムード」を保つように努めながら外を歩き、他人とすれ違っ
ても、顔をこわ張らせないようにするだけで良いのです。
軽く笑顔をつくることが出来ればなお良いのですが、あまりニコニコしすぎると反って
気味悪がられたり、「人をバカにして笑っている!」と、反感を買ったりするので注意が
必要です。しかしそれも、相手と場合によりけりです。
以上のようなことが、「隣人愛」の第一歩だと私は考えています。
私の経験では、商店街などで「優しさと安らぎのムード」と「軽い笑顔」を保って歩い
ていると、たいていの人は緊張をしたり顔をしかめつつも、嬉しそうな様子を示します。
それがなぜ分かるかと言えば、私が自己否定に取りつかれて不安やイライラをまき散ら
している時と、明らかに周りの人々の反応が違うからです。自分がイライラしていると、
赤の他人というのは、警戒心や敵意をけっこう露骨にみせるものです。
その逆に、私が「隣人を愛すること」に努めていると、人々の様子が明らかに和んでく
るのです。そして、100人のうち数人ぐらいは、笑顔をこちらに向けてくれる人が必ず
います。
その反応を見逃さないように注意して下さい!
しかし見逃さないようにと言っても、鋭い視線で見つめたりしないで下さい。鋭い視線
を投げかけると、せっかくの相手の笑顔が消えてしまうからです。何気ないそぶりで、し
かし、しっかりと相手の笑顔を確認するのです。
自分が「優しさと安らぎのムード」と「軽い笑顔」を投げかければ、相手も笑顔を向け
てくれる・・・。この体験は、人生で最高の宝物です。
なぜならそれは、自分が他人を愛せば、他人から自分も愛されることの、たしかな証明
と証拠だからです。
そしてまた、「愛の力」が幻想などではなく、相手に働きかける力、周りに影響を与え
る力として、たしかに実在することの証明と証拠だからです。
そしてこれは、「自己愛」と「隣人愛」の増幅循環がはじまり、自分が生まれ変わる瞬
間なのです!
しかしながら、町ですれ違う人々の100人のうち、99人までが良い反応を示さなく
ても、「優しさと安らぎのムード」を保つように努めてください。自分が緊張してしまう
と、「自己愛」と「隣人愛」の増幅循環が途絶えてしまうからです。だから、自己愛があ
るていど強くならないと、隣人愛に挑戦することが出来ないのです。
「自己愛」と「隣人愛」の増幅循環がはじまると、「愛の心」がどんどん強く大きくなっ
て行きます。それが、自分でも良く分かります。
というのは、町ですれ違う人々に対して、何の不安も恐怖も感じなくなるからです。つ
まり、他人が好きになるのです。
だから、「他人の目」に脅えたりすることが無くなります。その逆に、他人の視線を浴
びたりすると、何となく嬉しくさえ感じてきます。
そして、電車の中で老人に席を譲ったり、書類や荷物をぶちまけている人に手をかした
り、道に迷っている人に道を教えたり・・・。そんなことが、何のためらいもなく出来る
ようになります。
世の中を「素直な目」で見るようになり、世の中がとても明るく感じてきます。
赤ちゃんを大切に抱いている母親や、家族連れの親子。楽しそうな友だち同士やカップ
ル・・・自分の周りに、そのような「愛」がたくさん存在していることに気づいてきます。
生きる力や、生きる希望や、生きる勇気が、どんどん湧いてきます。
皆が自分と同じように「生きている」のが、何となく嬉しくなり、それが涙の出るほど
有りがたく感じてきます。
自分の心の中に「隣人愛」が生じると、上で挙げたように感じるのです。
「自己愛」だけに閉じこもるより、「隣人愛」へと前進した方が、はるかに世界が広がっ
て行きます。はるかに世の中が輝きだします。「愛の心」が、さらに強く大きくなります。
そしてまた、「自己愛」から「隣人愛」へと進んで行くことは、「生命の肯定」への正
しい道のりでもあります。
自己愛があるていど強くなったら、次はさらに勇気をだして、ぜひ隣人愛に挑戦してほ
しいと思います。