どうか生きることを愛して下さい 3
                              2024年2月11日 寺岡克哉


11章 呼吸ができるということ
 ここでは、私が「自己愛の感覚」を得たきっかけについて、お話したいと思います。
 この話は、私が個人的に体験したことなので、みなさんの役に立つかどうか分かりませ
ん。しかし、何か少しでも参考になることがあるかも知れないので、とにかくお話してみ
ようと思います。

 私が「自己愛の感覚」を得たきっかけは、「呼吸ができる!」ということでした。
 以前に私は、極度の「自己否定」に取りつかれ、ひどく無気力になったことがあります。
何もやる気が起こらなくなり、息をするのさえ面倒になりました。
 そのとき私は、「息を吐たまま呼吸が止まり、そのまま静かで安らかな世界に行けたら
いいだろうなあ・・・」と、心の中で思いました。
 それで、呼吸を止めてみることにしたのです。静かに息をはき、肺のなかの空気をすべ
て出しきったところで息を止めました。そうすると、ほんの数秒だけ、とても静かで安ら
かな世界が訪れました。それは、「何もしなくてよい世界」です。呼吸さえもしなくてよ
いのです。とにかくそれは、とても落ちついて、本当に安らかな世界でした。たぶんこの
安らかな気持ちは、「何もしなくてよいこと」から来ているのだと思います。「何かをし
なければならない!」という、切羽つまった思いがすべて消えさったので、とても安らい
だ気持ちになれたのだと思います。

 しかし・・・
 その安らかな世界は、ほんの数秒だけの出来事でした。なぜなら呼吸を止めると、「窒
息の苦しみ」が起こるからです。窒息の苦しみが起こると、もう、あの安らかな世界は完
全に吹き飛んでしまいます。私がどんなに安らかな世界を望んでも、そんな私の思いなど
関係なく、窒息の苦しみがどんどん大きくなって行きます。
 私は息を止め続けようとします。しかしどんなに息を止め続けようとしても、ついに窒
息の苦しみに耐えられなくなり、どうしても呼吸が始まってしまうのです。
 それは、「体がそのように反応する」からです。自分の意思などまったく関係なく、無
意識に体が反応するのです。
 そのとき私は、自分の意識とは全くちがう所から、「呼吸をせよ!」という命令が下さ
れていることに気がつきました。「体の反応」という無意識の世界から、「生きよ!」と
いう命令が下されているのです。しかもその命令は、たいへんに強く、すごく強制的なも
のです。
 つまり、私の意思などまったく関係なく、私の体は「生きようとしている」のです!
 このとき私は、「意識を超越した意志」というものの存在を実感しました。

 ところで私は、「呼吸」についてかなり意識している(つまり、こだわっている)人間
だと思います。
 というのは、私が子供のころは病気がちで、ちょっとした風邪をひくとすぐに高熱をだ
し、鼻と咽をつまらせて「呼吸に苦労した覚え」があるからです。小学生だった私は、毎
月のように、このような風邪に悩まされました。そのとき子供ながらに、「体が健康で呼
吸が楽にできるというのは、なんて有り難いことだろう!」と、切実に感じていました。
 それから年月がたち、高校生や大学生になると、私は山岳部に入りました。そしてその
時にも、かなり「呼吸に苦労した覚え」があるのです。
 私は、外国の高い山に登ったことはありません。しかし日本の山でも、重い荷物を背負っ
て登ると、かなり息苦しいものです。息を吸っても吸っても、呼吸がぜんぜん楽になりま
せん。歩いているときは、つねに呼吸が荒くなっています。そのとき、「呼吸をして体に
酸素をとりこむのも、ずいぶん大変なことだ!」と、つよく感じました。そして、「ふつ
うに楽な呼吸ができるだけでも、なんて幸せなことか!」と思いながら、必死になって山
に登った覚えがあります。
 病気がちだった子供のころの経験と、高校や大学での登山経験・・・。これらから、
「無意識に呼吸ができることは、たいへん幸せなことなのだ!」と、いうことに気がつい
たのです。そして、「呼吸ができるということ」について、いろいろと深く考えるように
なって行きました。

 無意識に呼吸ができる条件を考えてみると、「自分の体が健康であること」と、「周り
の環境が正常であること」の、大きく二つが挙げられます。
 たとえば、ゼンソクや肺炎などの重い病気にかかったり、胸や腹などを強く打ってひど
い怪我をすれば、たいへんな呼吸困難に陥ってしまいます。
 また、高山などの空気のうすい場所だったり、水に溺れかけていたり、大気汚染でひど
く空気が汚れていれば、呼吸が楽にできません。
 このように、自分の体が健康で、周りの環境が正常でないと、「無意識に呼吸ができる
状態」には決してならないのです。

 無意識に呼吸ができる条件を、今ここで思いつくままに挙げてみましょう。
 そうすると例えば、
 体が健康であること。
 環境が安全であること。(酸欠、有毒ガス、水に溺れるなどの危険がないこと。)
 大気汚染がなく、空気がきれいであること。
 酸素のある大気が、この地球に存在すること。
 その酸素は、地球の生態系によって作られていること。

 などなど、これらの条件がすべて満たされないと、「無意識に呼吸ができる状態」には
決してならないのです。
 そのことに思いが至ったとき、「無意識に呼吸ができる」という、そのことがまさに、
 自分が「何か大いなるもの」に優しく抱かれ、守られ、受け入れられていること。
 自分は、生きることが許されていること。
 自分の存在が認められていること。
 自分は、「何か大いなるもの」によって愛され、祝福されていること。
 に、私は気がついたのです。

 以上のような経緯をたどって、私は「自己愛の感覚」を得ることができたのです。


12章 自己否定のエネルギーを自己愛に向ける
 自己否定に激しく取りつかれ、生きるのがとても辛く感じている人・・・。そのような
人にとって、自己愛を持つのは、とても難しいことです。
 すべての人が確実に救われる方法。つまり万能の特効薬など、存在しないのが事実でしょ
う。(私は、「この方法ですべての人が救われる!」などと言うような、大ウソはつきた
くないのです。)
 しかし、何か少しでも皆さんの参考になればとの思いから、私が自己愛を持つために行っ
た方法について、これからお話して行くことにします。

 私が自己愛を持つために行った方法は、「自己否定に向けていた精神的なエネルギーを
自己愛に向ける」と、いうものです。
 自己否定に取りつかれると、精神的なエネルギーのすべてが、自己否定に向いてしまい
ます。
 「こんな自分はだめだ! こんな自分はだめだ!・・・」
 「しかし自分は何もできない。何もできない・・・」
と、精神力のすべてを使って、自分を責めてしまうのです。
 これは、自分の精神的なエネルギ-で、自分の精神的な自由をしばりつけている状態、
つまり「自己抑圧」の状態です。これでは精神的なエネルギーが鬱積し、イライラ、ムカ
ツキ、焦燥、恐れ、不安、やり場のない怒りなどが増大してしまいます。
 そして、その鬱積したやり場のないエネルギ-を、さらに自分を責めることに向けてし
まうのです。なぜなら、自己否定に取りつかれた人間が唯一できるのは、「自分を責める
こと」だけだからです。つまり、自己抑圧をさらに強めてしまうのです。
 自己抑圧が強くなれば、エネルギーの鬱積もさらに大きくなります。そして、その大き
くなった鬱積を、さらに自己抑圧に向けてしまいます。
 このようにして、「精神的なエネルギ-の鬱積」と「自己抑圧」がお互いに強め合い、
「自己否定の苦しみ」がどんどん大きくなって行くのです。
 これは、胸や息がつまるほど大変に苦しく、とても窮屈な状態です。
 こんな状態が何年もつづいたら、鬱積したエネルギーが一気に爆発して暴力をふるった
り、あるいは苦しみに耐えかねて「一思いに自殺しよう・・・」などと考えてしまうのも、
無理もないような気がします。

 しかし、ここで発想を転換させることが、救われるか破滅かの分かれ目であり、生きる
か死ぬかの勝負所です!
 私は発想を変えて、このような自己否定による苦しみは、じつは「人間が進歩するため
の原動力である!」と、考え直すことにしました。なぜなら、ダメな自分を何とかしよう
として悩み苦しむのは、人間として成長しようとする意志の現れだからです。
 たとえば人間以外の動物には、「自己否定の苦しみ」など存在しません。水や食べもの
が十分にあり、怪我や病気がなく、外敵もいなければ、動物は悩み苦しむことなく、まっ
たく安心して寝そべっているだけです。
 ところが人間だけは、そのような理想の生存環境であるにもかかわらず、いろいろと考
え、悩み苦しんでしまいます。人間だけが「いらぬ苦しみ」を抱え込んでいるのです。こ
の点だけを見れば、動物の方が、人間よりも賢いとさえ言えるでしょう。
 しかし人間は、その「苦悩する能力」のお陰で、他の動物には及びもつかない進歩と発
展ができたのです。宗教、哲学、思想、芸術、科学、文明、技術・・・。これら、人間だ
けに存在する高度な活動の、原動力の一つが「苦悩」であることは否定できません。

 自己否定によって鬱積するエネルギ-が、苦しみを生じさせるのは事実です。しかしそ
のエネルギーは、人間を成長させる原動力でもあるのです。だからこのエネルギーは、自
己愛への原動力にも転換できるはずだと私は考えました。
 そして、私が実際に試してみたところ、それは現実に可能でした! 自己否定や自己抑
圧に向けていたエネルギ-を、自己愛への原動力として使うことができるのです!
 生きることを憎み、自分を憎むことに向けていたエネルギーが、生きることを愛し、自
分を愛することに使えるのです。自己否定による「エネルギ-の鬱積」と「自己抑圧」の
悪循環をたち切り、そのエネルギーを「自己の解放」に向けることができるのです。

 ここで私がお話したかったのは、自己否定のエネルギ-を、自己愛のエネルギーに転換
することが、現実に可能だということです。まずはじめに、そのことを皆さんに知って頂
きたかったのです。その上で、私が実際に行った具体的な方法を、お話したいと思ったの
です。それについては、これから順を追ってお話して行きます。


13章 自己愛を持つためのの具体的な方法
 さて、いよいよこれから、私が自己愛を持つために行った具体的な方法について、お話
したいと思います。
 まずはじめに、自己否定による「エネルギーの鬱積」と「自己抑圧」の悪循環を、たち
切らなければなりません。

 「私はだめな人間だ・・・ だめな人間だ・・・ 」
 「何とかして頑張らなければ・・・ 頑張らなければ・・・ 」
 「しかし、何もやる気が起こらない・・・ 」
 「心と体に、まったく力が入らない・・・ 」
 「やはり、私はだめな人間なのだ・・・ 」
 「生きることは、本当に辛い・・・ 」
 「毎日が、まるで地獄のようだ・・・ 」
 「このまま生きていたって、良いことなんか一つもない・・・ 」
 「私なんか、この世に存在しない方がよいのだ・・・ 」

 というような、堂々めぐりの思考をたち切るのです。この堂々めぐりをたち切るには、
風呂に入って「ボケ~ッ」と何も考えないようにしたり、座禅による瞑想を行なったりし
て、何も考えないようにします。
 とにかく、「何も考えないこと」に意識を集中し、「言語による思考の堂々めぐり」を
強制的にたち切るのです。
 そうすると、言語による「うるさい思考」が消えさり、言葉では表わせない何か漠然と
した、恐れ、不安、焦燥、空しさなどを感じるようになります。
 何と表現したらよいのか・・・ なんとなく呼吸が荒くなり、心臓がドキドキして、胸
がしめつけられるような感じです。そして、冷汗が「じとーっ」と出てきそうな切迫感が
あります。深酒をしたときの、「酔いざめの気分」にどこか似ています。
 これを私は、「根源的な苦」と呼んでいます。
 「根源的な苦」によって生じる不安や焦燥には、いくら考えてみても、これといった具
体的な原因が見つかりません。心の奥底から無意識に、理由もなく湧きだしてくる不安や
焦燥なのです。

 ところで人間は、どんなに「欲望」を満たしても、それで満足することがありません。
お金、地位、名声、権力などを、次から次へと貪欲に求め、どこまでも尽きることがあり
ません。これも、「根源的な苦」が原因となっています。
 人間は、ある一つの欲望を満たしてしまうと、そのとたんに空しさを感じはじめます。
そして漠然とした不安や焦燥が、新たに生じてしまいます。この理由の分からない、空し
さ、不安、焦燥も、「根源的な苦」なのです。
 根源的な苦は、どんなに欲望を満たしても、絶対に消滅させることができません。新た
な「根源的な苦」が生じるだけです。だから、根源的な苦を感じないようにするには、つ
ねに新しい欲望をもち、それを満たし続けなければなりません。そのため根源的な苦は、
「無限の欲望」の原因となっているのです。
 このように、「根源的な苦」によって生じる「無限の欲望」は、人間に「無限の苦しみ」
を与える元凶であり、人類の悲劇の根源ともいえます。
 しかしながら根源的な苦は、人間の進歩の原動力でもあるのです。なぜなら根源的な苦
があるために、人間は、現状を維持するだけで満足しないからです。人類が、他の動物に
及びもつかない進歩をとげたのも、人間だけが「根源的な苦」を持つからです。
 そして、「このままの自分ではだめだ!」と思い込んでしまう「自己否定の苦しみ」も
また、もとをたどれば「根源的な苦」が原因です。ゆえに根源的な苦は、「自分を進歩さ
せるための原動力」だといえるのです。

 さて、思考の堂々めぐりを断ちきり、根源的な苦をじかに感じるようになったら、今度
は「この不安や焦燥は苦しみなどではなく、自己愛のための大切なエネルギーなのだ!」
と思い直します。そしてその不安や焦燥を、「自分を愛すること」だけに集中させるので
す。

 まずはじめに、
 「自分を絶対に責めない!」
 「嫌なことは、絶対に思い出さない!」
 「力の限りをつくして自分を愛する!」
という、強い決意をします。

 つぎに、
 大きく深呼吸をして、大生命の「大愛」を実感します。
 自分をやさしく包み込んでくれる地球の大気・・・。そこに酸素があり、呼吸ができる
のは、すべて大愛のお陰です。それを体の全体で実感するのです。

 そしてつぎに、
 自分は大生命に愛され、生きることが許されているのだ!
 自分は生きているだけでも、立派に「生命の仕事」を行っているのだ!
 自分にも、「生命の絶対価値」が必ず存在するのだ!
と強く信じます。(大生命、大愛、生命の仕事、生命の絶対価値については、前でお話し
た5~9章を参照して下さい。)

 その他にやるべきこととして、
 「自分はこれでいいのだ! これでいいのだ!」と、力の限りをつくして思うようにし
ます。
 「自分は良くやっている!」と、いつも思うようにします。
 少しでも自分の良いところを、一生懸命にさがします。(たとえば、自分の長所のリス
トアップを作り、毎日それを読むようにすれば良いでしょう。)

 何かに成功したこと、何かを達成したこと、人から誉められたことなどを、思い浮かべ
るようにします。
 好きな人、好きな食べ物、好きな本、好きな映画、好きな音楽など、何でも自分の好き
なものについて考えるようにします。
 歌を口ずさんだり、鼻唄を歌ったりします。
 少しでもやりたいと思ったことは、何でも気軽にやってみます。(しかし、犯罪などの
悪いことはだめです。)
 気楽な気分を守るようにし、深刻に考え込まないようにします。
 不安や焦燥を、一瞬たりとも心の中に置かないように注意し、そのように意識を集中さ
せます。
 少しでも不安や焦燥を感じたら、それ以上の気合いを入れて、自分を愛することに専念
します。

 ところで、今お話したような「自分を愛する努力」とは、「不安や焦燥を抑えつけるこ
と」ではありません。不安や焦燥は決して抑えつけません。むしろ、「不安や焦燥のエネ
ルギーは、たくさんあればあるほど良い!」と思うぐらいが良いのです。なぜならそれは、
自己愛のための大切なエネルギーだからです。そのエネルギーを、不安や焦燥の抑圧に向
けるのではなく、「自分を愛すること」に向けるのです。
 しかしながら、「自分を愛さなければならない!」という、切羽つまった気持ちを持た
ないようにします。そのような気持ちになると、反って逆効果になってしまうからです。
 楽しい気分、嬉しい気分、安らかな気分、優しい気分などを、努めて守るようにするの
です。そのように、「不安や焦燥のエネルギー」を使うのです。
 そうすると徐々に、不安や焦燥の源だと思われた「根源的な苦」が、何か良いことが起
こりそうな、ドキドキワクワクする、楽しさや喜びを予感させるものに感じてきます。
 たとえばそれは、「恋の予感」によく似た感じです。「恐れや不安を勇気に変える」と
いうのとも、似ているかも知れません。
 「根源的な苦」が自己愛のエネルギーに転換できると、そのように感じるのです。

 この「根源的な苦の転換」は、たとえば性欲のエネルギーを、スポーツや芸術、学問、
あるいは他の仕事に向けるような「性欲の昇華」と、やり方としては似ているのかも知れ
ません。
 「性欲の昇華」は、性欲のエネルギーを頭ごなしに抑えつけるのではありません。その
エネルギーを、べつの方面で積極的に活用するのです。だから「性欲の昇華」が上手にで
きると、欲求不満によるストレスは起こりません。性欲のエネルギーが、しっかりと消費
されているからです。そして、たいへん充実した心安らかな気持ちになります。
 しかし、性欲のエネルギーを消費せずに頭ごなしに抑えつければ(つまり抑圧すれば)、
性欲のエネルギーが鬱積して、欲求不満のストレスがどんどん大きくなります。

 「根源的な苦」による不安や焦燥のエネルギーも、ちょうどこれと似ています。そのエ
ネルギーを「自己抑圧」に向けると、エネルギーが鬱積して自己否定の苦しみがどんどん
大きくなります。
 しかし、不安や焦燥のエネルギーを「自己愛への努力」に消費すれば、苦しみが小さく
なります。そして自己愛が持てるようになると、心が喜びに満ち、とても充実した気分に
なるのです。
 (ちなみに性欲も、自己愛へのエネルギーに転換できます。しかし性欲が起こること自
体が、すでに自己否定からかなり立ち直っている状態です。なぜなら自己否定による落ち
こみが激しいと、性欲などまったく起こらないからです。)

 自己愛を持つために、私が実際におこなったのは、以上のようなことです。
 「根源的な苦の転換」が一応できるようになるまで、私の場合は一年ほどかかりました。
しかしその時はまだ、とても完全とは言えませんでした。その後も少しずつ進歩し、「自
分はもう大丈夫だ!」と思えるようになったのは、それから五年ぐらい経ってからだと思
います。
 それはたとえば、「性欲の昇華」の場合でも、すぐに出来るようにはなりません。何年
もかけて、少しずつ出来るようになって行くのです。その点も、両者はよく似ていると思
います。

 とにかく時間をかけて、ゆっくりと焦らずに取りくむことが大切です。


14章 自己愛の訪れ
 ところで、前でお話した「自分を愛する努力」を行う場合に、一つ言い忘れたことがあ
りました。それは、「恐れ、不安、焦燥などに襲われる生活環境から自分を遠ざける」と
いうことです。
 たとえば・・・
 会社で、自分がリストラの対象になっていたり、
 学校で、いじめに会っていたり、
 家庭で、親から虐待を受けていたり、
 同じく家庭内で、夫から暴力を受けていたり、
 あるいは老人が、息子や嫁から虐待を受けていたり・・・。
 もしも生活環境がこのようであれば、「自分を愛する」どころではありません。そのよ
うな環境では、いくら「自分を愛する努力」をしようとしても、それができないのは当然
です。

 ところで現代科学は、人間がユウウツな気分になる理由を、脳内の化学物質がバランス
を失うからだと説明します。確かにそれは、科学的に正しいのでしょう。そして、食物の
栄養バランスにその原因を求めたり、あるいは、薬によって脳内の化学物質をコントロ-
ルする試みが流行しています。
 しかし、「なぜ脳内の化学物質がバランスを失うのか?」といえば、それは、自分の置
かれている環境(仕事、家庭、人間関係など)や、自分の思考様式(考え方の癖や、さま
ざまな思い込みなど)が、深く関わっているのは否定できません。これらの改善をなくし
て、自己否定の根本的な解決はありえないのです。

 自分の置かれている環境がひどく悪い場合には、思いきって会社や学校、あるいは家庭
から一時的に離れるのも、ひとつの方法かも知れません。(とくに虐待や暴力を受けてい
たり、自殺をする恐れのある人は、そのような緊急避難が絶対に必要です。また場合によっ
ては、カウンセリングや薬による治療が必要かもしれません。)
 しかしながら多くの場合は、そこまでする必要もないと思います。大抵の場合は、「他
人のことをまったく気にしなくてよい場所と時間」というのを、1日に30分でも1時間
でもよいから、毎日持つように心がければ良いかと思います。(実際に私もそうしていま
す。)
 たとえば近くに川があれば、川原に行って水の流れや景色を見たり、自分の部屋に誰も
いなければ、窓から空や雲をながめたりするのです。

 また、林の中を散歩したり、ジョギングをするのも良いかと思います。しかしそのとき
は、健康やダイエットのためにやるような、ただひたすら歩いたり走ったりするのではあ
りません。風の音や木々のざわめき、鳥のなき声などに耳を澄まし、風の肌触りや、草花
の色や香りに意識を集中させます。そのようにして、「大自然」を体の全体で実感するの
です。
 一人で風呂に入って「ボ~ッ」としたり、静かな部屋で瞑想をするのも良いかと思いま
す。
 あるいは、ゆったりと音楽を聞いたり、のどかな風景の絵画を見たりするのも良いかも
しれません。
 このように、「他人のことを忘れる時間」を持つと、気分がだいぶ楽になります。そし
て、「自分を愛すること」に意識が向けられるようになります。そのような時間を確保し
ながら、毎日少しずつ、「自分を愛する努力」を続けて行くのです。
 しかし、くれぐれも焦ってはいけません。また、「自分を愛さなければならない!」な
どと、自分自身を追いつめてもいけません。あくまでも「安らかな心」をしっかりと保ち
ながら、気長に、気長に取りくむのです。
 「自分を愛する努力」とは、決して、「苦しんで努力をすること」ではありません。
 優しい気持ち、安らかな気持ち、ワクワクするような気持ちなどを積極的に追いもとめ、
その気持ちを努めて守るという「努力」なのです。

 さて、そのような「自分を愛する努力」をしばらく続けていると、だんだんと自己愛が
実感できるようになります。
 しかし初めのうちは、その実感がなかなか得られません。しかしそれでも、「自分を愛
する努力」をあきらめずに、毎日つづけるのです。
 そうしていると、たとえ自己愛が実感できなくても、心の奥深くにある無意識の場所
(つまり深層心理)に、「自己愛」がだんだんと浸透し、蓄積されて行くように私には思
われるのです。
 なぜそう思うのかと言うと、あるとき突然に、「自己愛を実感する瞬間」というのが訪
れるからです。これは、深層心理に蓄積されていた「自己愛」が、あるとき突然に、意識
の上にのぼって来るからだと思うのです。
 (ちなみに私の場合は、「自分を愛する努力」を始めてから自己愛の実感が訪れるまで
に、一年ぐらいかかりました。)

 「自己愛の実感」が訪れると、それまで意識をして作っていた「安らかな心」が、ごく
自然に、自動的に生じるようになります。
 イライラしてジリジリとする、身を焼くような焦燥や不安がスッと消え、とても安らい
だ気持ちになります。
 体をしめつけるような緊張がほぐれ、息のつまるような閉塞感が消えてなくなります。
 世の中がパッと明るくなり、世界が広々と感じてきます。
 なにか優しくて暖かな空気に、体の全体が包まれるような感じがします。そのような優
しさと安らぎの雰囲気(ム-ド)を、全身に感じるのです。それは冬の寒い日に、暖かい
布団にくるまっているような感じに似ているかもしれません。とにかく、とても落ちつい
て安らいだ気分です。
 そして、
 「自分はこれで良いのだ!」
 「これが最良の状態なのだ!」
 「自分はこのまま生きれば、それでまったく良いのだ!」
と、心の底から実感できるのです。そして、生きる意欲や生きるエネルギーが、腹の底か
ら湧いてくるのです。

 しかし初めのうちは、このような「自己愛の実感」はすぐに消えてしまいます。(私の
場合は、2~3分ぐらいで消えてしまいました。)
 だから「自己愛の実感」が訪れたら、その感じを忘れてしまわなうちに、しっかりと覚
えるようにします。
 そして今度は、その「自己愛の実感」が再び現れるように、意識を集中させるのです。
そのような努力を毎日つづけていると、「自己愛の実感」の訪れる回数がふえ、それが持
続している時間も長くなります。
 私の場合、初めのうちは、「自己愛の実感」が訪れるのは1カ月に1度あるかないかで
した。しかしそれが1週間に1度になり、3日に1度、そして毎日というように、回数が
だんだんと増えました。 そして「自己愛の実感」が訪れている時間も、初めは2~3分
で消えてしまったものが、10分ぐらいは続くようになり、それが30分になり、さらに
は1~2時間というように、だんだんと長くなりました。
 今では、晴れている日に散歩をすると、大体いつも「自己愛の実感」が訪れるようにな
りました。つまり、とても機嫌が良くなるのです。時間としては1~2時間ぐらいでしょ
うか。
 初めて「自己愛の実感」が訪れてから、私がそのようになるまでに、さらに1年ぐらい
かかったと思います。
 ちなみに、「自分を愛する努力」をまったくしていなかった昔の私は、自己愛を実感す
ることができたのは2年間に1度ぐらいしかありませんでした。というのは、大学の入試
に合格したとか、好きな人ができたとか、仕事が大成功したとか、そのような特別なこと
が起こらないかぎり、自己愛を実感することが出来なかったからです。

 「自分を愛する努力」を毎日つづけていると、「自己愛の実感」がいつか必ず訪れます。
 私は、それを確かに体験をしました。
 「自分を愛する努力」は、決して無駄ではないのです! 

 だから、「自己愛の実感」がなかなか得られないからと言って、「自分を愛する努力」
をすぐに諦めないでほしいのです。効果が現れるのを焦らずに、時間をかけてゆっくりと、
気長に、気長に、取りくんでほしいと思います。


15章 自己愛の増幅循環
 「自分を愛する努力」を続けることにより、「自己愛の実感」が訪れるようになったら、
その「実感」がなるべく長く続くように努めて下さい。そのことによって、「自己愛」が
さらに強くなって行くからです。自分を愛し続けることにより、自己愛はどんどん強めら
るのです。
 つまり「自己愛」は、それ自身を強めるような、「増幅循環」をするのです。
 ところでこれは、「自己否定」の場合も同じことが言えます。自己否定も「増幅循環」
をするのです。
 いま現在、自己否定に苦しんでいる人には、「自己否定の増幅循環」ならばすぐに納得
できるでしょう。しかし「自己愛の増幅循環」は、なかなか納得が行かないのではないで
しょうか。(かつて、自己否定に苦しんでいたときの私がそうでしたから・・・。)
 しかしこれらは、思考や感情の向かう「方向」が異なるだけで、「心のメカニズム」と
しては、まったく同じだと私は考えています。そこで、「自己愛の増幅循環」を納得しや
すくするために、まず先に「自己否定の増幅循環」からお話したいと思います。そしてそ
の後に、「自己愛の増幅循環」と比較してみたいと思います。

 「自己否定の増幅循環」とは、たとえば、「自分はダメな人間だ・・・ 自分はダメな
人間だ・・・ 」と、毎日のように思い続けていると、本当に自分がダメな人間に感じて
くるということです。
 あるいは、「生きるのは辛いだけだ・・・ 生きるのは辛いだけだ・・・ 」と、毎日
のように思い続けていると、本当に生きるのが辛くなります。

 同じように、
 「生きることに意味がない・・・ 生きることに意味がない・・・ 」
 「生きても仕方がない・・・ 生きても仕方がない・・・ 」
 「生きるのは苦しい・・・ 生きるのは苦しい・・・ 」
 「生きていたくない・・・ 生きていたくない・・・ 」
 「このまま生きるより、死んだ方がましだ・・・ 死んだ方がましだ・・・ 」
 ・・・ ・・・ 等々。

 毎日このようなことを思い続けていると、本当にそのよう感じてしまいます。そしてつ
いに、それが「真実」であると確信してしまうのです。
 また、このような「言語による思考」だけでなく、「漠然とした恐れや不安」を毎日の
ように感じ続けていると、恐れや不安がどんどん大きくなって行きます。
 「わけの分からない焦燥」を毎日のように感じ続けていると、焦る気持ちがどんどん大
きくなって行きます。「自己嫌悪」や「自分を憎む感情」も、まったく同様です。
 そのような「不快な感情」も、毎日のように感じ続けることにより、さらに強く大きく
なって行くのです。これが、「自己否定の増幅循環」です。
 毎日のように自己否定をしていると、自己否定がどんどん強化されて行くのです。それ
は、自己否定に苦しんでいる人には良く分かると思います。

 そしてこれは、「自己否定の努力」を行っているのと、まったく同じことです!
 長いこと自己否定に苦しんでいる人は、何年も、さらにひどい場合は何十年も、毎日の
ように「自己否定の努力」を続けてきた人なのです。
 あなたは、いったい何年の間、自分自身を苦しめてきたのでしょう? 10年でしょう
か? 20年でしょうか? それだけの長い間、あなたは「自己否定の努力」を一生懸命
につづけ、自己否定を強く大きくしてきたのです。

 ところで今お話したことは、「自己愛」の場合にも、まったく同様に当てはまります。
 「自分を愛そう!」という努力を毎日のように続ければ、自己愛が増幅循環し、どんど
ん強く大きくなって行きます。だから自己愛を育てるには、「自己否定の努力と、まった
く反対のことをやれば良い」のです。

 たとえば、
 「私は価値のある人間だ! 私は価値のある人間だ!」
 「生きることには意味がある! 生きることには意味がある!」
 「生きることには価値がある! 生きることには価値がある!」
 「生きるのは楽しい! 生きるのは楽しい!」
 「生きていると嬉しい! 生きていると嬉しい!」
 「生きることは素晴らしい! 生きることは素晴らしい!」
 「生きていて幸せだ! 生きていて幸せだ!」
 「この世に生まれて良かった! この世に生まれて良かった!」
 ・・・ ・・・ 等々。

 これらのことを毎日のように思い続けていると、本当にそのように感じてくるのです。
 自己否定に苦しんでいる人には、とても信じられないことでしょう。だから、「そんな
ことを、毎日のように思い続けるなんて馬鹿げている!」と、感じてしまうかも知れませ
ん。
 しかし、「生きることは苦しい! と思い続けることにより、自分自身をさらに苦しめ
ることの方が、もっと馬鹿げた行為だ!」 と、いうように考えてみて下さい。そうする
と、「自分を愛すること」に対する、恥ずかしさや馬鹿らしさがやわらぎます。
 また、今お話したような「言語による思考」だけでなく、優しさ、安らぎ、心の温かさ、
元気、やる気、勇気などの「良い感情」も、毎日のように反復して感じることにより、強
く大きくなって行きます。これも、自己否定の場合とまったく同じです。

 自己愛は少しずつ育ちます。毎日、毎日、ほんの少しずつ、自己愛は強く大きくなって
行くのです。
 くり返しますが、自己否定に苦しんでいる人は、何年も、場合によっては何十年も、
「自己否定の努力」を続けてきた人です。
 今度はそれを、少しずつ直して行こうというのです。だから自己愛を育てることにも、
それなりの時間がかかって当然なのです。
 だから、「自己愛の実感」がなかなか得られないからと言って、「自分の努力が足りな
いからだ!」などとは、絶対に思わないで下さい。これは時間のかかる仕事なのです。焦
らずに、ゆっくりと、ゆっくりと、やって行けば良いのです。
 「自分を愛する努力」を行うのは、とても楽しいことです。優しさ、安らぎ、やりがい、
生きがい、勇気などを感じる、とても幸せな状態です。だから決して、「辛くて嫌な努力」
ではないのです。少なくとも、「自己否定の努力」を続けるよりは、ずっと幸せで楽しい
ことです。

 あなたは、今まで十分に自分を苦しめてきたのです。
 だから、これから幸せになることを、ためらう必要など全くありません。そして、誰に
もそれを止める権利はありません。

 あなたには、幸福になる権利と資格が十分にあるのです!


16章 自己愛の落とし穴
 ところで、「自分を愛する努力」を行うときに、一つ注意しなければならないことがあ
ります。それは、自己愛には「間違った自己愛」と言えるものがあることです。
 この「間違った自己愛」には、エゴイズム、自信過剰、自意識過剰、ナルシシズム、自
己陶酔などがあります。
 「自己愛」の意味を取りちがえて、このような「間違った自己愛」を増長させてしまう
と、自分自身が不幸になるばかりか、周りの人々にも苦しみと不幸をばらまいてしまいま
す。
 だから、自分を愛する努力を行うときは、「正しく」自分を愛さなければなりません。
そこで、「正しい自己愛」と「間違った自己愛」の違いについて、ここで少し考えてみた
いと思いました。

 「正しい自己愛」と「間違った自己愛」は、その違いがとても微妙です。だから、それ
らは一般に混同されやすく、十分に気をつけなければなりません。
 「正しい自己愛」と「間違った自己愛」は、「愛の感情」としては、たいへん良く似て
います。だから「感情」によっては、それらの違いが判断できません。つまり、それらを
判断できるのは「理性」なのです。
 自己愛には、「理性」が伴わなければなりません。
 正しい自己愛とは、「理性的な自己愛」なのです。

 つぎに、「正しい自己愛」と「間違った自己愛」の違いについて、いくつか例を挙げて
みましょう。
 「正しい自己愛」とは、自分の信念をつらぬき通すことですが、自分勝手なエゴイズム
を押し通すことではありません。
 「正しい自己愛」とは、自分を好きになることですが、ナルシシズムや自己陶酔のこと
ではありません。
 「正しい自己愛」とは、自分に自信を持つことですが、自信過剰や自意識過剰のことで
はありません。
 このように一見すると、「正しい自己愛」と「間違った自己愛」は、その違いがとても
微妙です。
 しかしながら、「正しい自己愛」は周りの人々に愛をあたえ、「間違った自己愛」は周
りの人々に憎しみをぶつけるという、とても大きな違いがあるのです。

 ところで「間違った自己愛」は、自己否定の人間も持っています。というよりは、「間
違った自己愛」を持つがために、自己否定に取りつかれるのです。
 じつは、私がそんな人間ですが・・・自己否定の人間はプライドが高く(自意識過剰)、
何でも自分の思い通りに行かないと気がすみません(エゴイズム)。しかも全てのことに
おいて、自分の実力以上にできるのが当たり前だと思い込んでいます(自信過剰)。
 そのため、コンプレックスや挫折感をもちやすく、ストレスも大きいのです。そして自
分自身を憎むのと同時に、周りの人々にも憎しみをぶつけてしまいます。
 自己否定の人間が自分を憎むのは、自分が「理想とは程遠い人間」だからです。そんな
自分が情けなくなり、そんな自分の存在が許せないのです。そして最後には、「自分なん
か生きていても仕方がない!」などと思い込んでしまいます。

 また、自己否定の人間が周りの人々を憎むのは、周りの人間が、自分にコンプレックス
や挫折感を感じさせるからです。自己否定の人間は、つねに周りの人間と自分を比べて、
コンプレックスや挫折感を持っています。そしてそれを、周りの人間の所為にしています。
だから自己否定の人間は、周りの人々が憎くて仕方がないのです。
 心の底にこびりついたコンプレックスや挫折感は、いろいろな形で自分の思考に悪い影
響をあたえます。世の中をゆがめて見るようになり、否定的な考え方をするようになりま
す。
 たとえば戦争や自然破壊など、人類の悪いところばかりを次々と挙げて、「こんな人類
など、この地球から消えさってしまえば良いのだ!」などと考えてしまうのです。

 また、たとえ自己否定に取りつかれない場合であっても、「自分さえ良ければそれでい
い!」というような自分勝手なエゴイズムは、周りの人々に苦しみや不幸をばらまいてし
まいます。
 それは、家庭内における「暴君」から、国家権力者における暴君まで、その実例には限
りがありません。

 ところが「正しい自己愛」の人間も、実はある意味のエゴイズムを持っているのです。
しかもそれは、かなり強烈なものです。
 そのエゴイズムとは、周りの人々からいくら反対されようとも、さらには自分の身が危
険にさらされようとも、人類の平和と幸福のために自分の信念をつらぬき通すという、強
い意志や行動となって現れます。
 たとえば釈迦は、この世を苦しみから救うために、家族の反対を押しきり、妻子を捨て
てまで出家をしました。
 またキリストは、自分が殺されると分かっていながら、十字架につけられてまでも、自
分の主張を曲げませんでした。
 私はそれらを「正しい自己主張」と呼び、単なる自分勝手なエゴイズムと区別したいと
思います。このように、「正しい自己愛」の人間にも、強烈なエゴイズムが存在します。
しかしそれは、人々を愛と幸福へ導くためのものなのです。

 ところで世間一般では、「罪の意識が大切だ!」とか、「自己否定の精神が大切だ!」
などと言われることがあります。しかしこれも、自己否定を招きかねない言葉だから、注
意が必要だと思います。
 たしかに、エゴイズムや自信過剰などの「間違った自己愛」を持ってしまうと、他人へ
の思いやりが無くなってしまいます。だから世間では、「罪の意識が大切だ!」とか「自
己否定の精神が大切だ!」と、よく言われるのでしょう。
 しかし私は、「正しい自己愛」を持つことができれば、「罪の意識」や「自己否定の精
神」は不要であるばかりか、反って有害であるとさえ考えています。本当に大切なのは、
「罪の意識」や「自己否定の精神」を持つことではなく、「正しい自己愛」を持つことだ
からです。

 「自己愛」のことを誤解し、「間違った自己愛」を持ってしまうと、反対に自己否定に
取りつかれてしまいます。
 そして周りの人々に、自分のエゴや憎しみをぶつけ、不幸や苦しみをばらまいてしまい
ます。
 だから「自分を愛する努力」を行うときは、間違った自己愛ではなく、「正しい自己愛」
を目指さなければならないのです。



 つづく



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