どうか生きることを愛して下さい 2
                              2024年2月4日 寺岡克哉


5章 大生命に受け入れられていること
 ここでは、あなたや私が「大生命に受け入れられていること」についてお話しましょう。
 まずはじめに、あなたや私が「大生命に受け入れられている」といえる理由を考えてみ
ます。そうすると、つぎの三つが挙げられます。
 (1)大生命は、すべての生命を含む「地球の生態系」であること。
 (2)大生命が「一つの生命維持システム」であること。
 (3)大生命は「一つの生命」であり、私たち個々の生物は、大生命の「細胞」である
こと。
 これらについて、つぎに説明して行きたいと思います。

 (1)大生命は、すべての生命を含む「地球の生態系」であること。
 前に、「大生命」をこのように定義しました。だから、あなたや私も「大生命」の中に
含まれます。つまり「大生命の定義」から言って、あなたや私が大生命から切り離される
ことは、絶対にありえないのです。
 しかしこれは、「定義」という単なる言葉だけの話ではありません。ちゃんとした実際
の意味もあるのです。それを示したのが(2)であり、その考え方をさらに発展させたの
が(3)です。

 (2)大生命が「一つの生命維持システム」であること。
 これも前にちょっと触れましたが、ここでもう少し詳しく説明したいと思います。
 地球のすべての生命は一つにつながり、「一つの生命維持システム」を作っています。
たとえば、私たちがいつも行う「呼吸」について考えても、私たちと南米アマゾンのジャ
ングルはつながっているのです。なぜならアマゾンのジャングルは、「地球の肺」と言わ
れるほどたくさんの酸素を作っており、その酸素を日本に住んでいる私たちも吸っている
からです。
 さらには陸の生命だけでなく、海と陸の生命も一つにつながっています。たとえば陸の
植物がつくった酸素は、海水に溶けこんで、海の動物に使われます。また逆に、海の植物
がつくった酸素は空気中に放出され、陸の動物に使われるのです。
 また、陸の動物が出した二酸化炭素や、山火事で発生した二酸化炭素は海水に溶けこみ
ます。そして海の植物に使われたり、サンゴや貝の殻に使われたりします。このように酸
素や二酸化炭素は、海と陸の生命の間で交換されているのです。
 また例えば、川によって陸から海に運ばれるさまざまな有機物は、海の生物に使われて
います。逆に、陸に打ち上げられた海の生物や、川をのぼるサケなどは、陸の動物のエサ
となります。
 このように海と陸の生命は、いろいろな関係で一つにつながっているのです。

 ところで、地球のすべての生命が一つにつながっているのは、「地球」という限られた
場所と環境の中で、できるだけたくさんの生命を育もうとするからです。
 たとえば「食物連鎖」を考えると、その始まりは植物です。植物が草食動物に食べられ、
草食動物が肉食動物に食べられます。だから結局、地球のすべての生命を養っているのは
「植物」なのです。
 植物が太陽の光を受けて育ち、それによって全ての生命が支えられています。つまり、
地球の生命全体を生かしているエネルギ-は、植物が受けている「太陽エネルギ-」がす
べてなのです。そのエネルギ-を、地球の生命全体で無駄のないように分け合っています。
だから地球に生きるすべての生命は、何らかの関係で「一つにつながらざるをえない」の
です。
 大生命は、地球のすべての生命がつながった、「一つの生命維持システム」です。大生
命が存在しなければ、私たちは絶対に生きることができません。だから、「私たちが今こ
こで生きている」というその事実がまさに、私たちが大生命のシステムに組み込まれ、大
生命に受け入れられていることの、絶対的な証拠なのです。

 (3)大生命は「一つの生命」であり、私たち個々の生物は、大生命の「細胞」である
こと。
 こんなことを言えば、何やら新興宗教じみた感じがしないでもありません。しかし、
「地球の生態系」のことを考えれば考えるほど、そのことが本当に思えてくるのです。
 それは、「多細胞生物」と「個々の細胞」の関係と、「大生命」と「個々の生物」の関
係を比べてみれば、納得できるのではないでしょうか。

 「多細胞生物」とは、ごくふつうの動物や植物のことです。目に見える大きさの生物は、
そのほとんどが多細胞生物です。これらの多細胞生物は、とても小さな「細胞」というも
のが、たくさん集まって出来ています。それで多細胞生物というのです。
 たとえば「人間」という多細胞生物は、約60兆個もの細胞からできています。そして
この細胞には、脳細胞、筋肉細胞、内蔵の細胞、皮膚や髪の毛の細胞など、実にさまざま
な種類があります。
 ところで信じられないかも知れませんが、これら一つ一つの「細胞」は、ある意味で
「一個の独立した生命体」だといえるのです。というのは、栄養や酸素などの条件を整え
れば、一つの細胞だけで生きることが出来るからです。つまり人間などの多細胞生物は、
細胞という「独立した生命体」がたくさん集まって出来ているのです。
 しかしながら、細胞が「独立した生命体」だと言っても、実験室で特別な環境を整えな
いかぎり、一つの細胞だけでは絶対に生きられません。自然の環境においては、「人間」
という「生命維持システム」に組み込まれていなければ、細胞は生きることが出来ないの
です。
 肺から酸素を取りこみ、その酸素が血液によって全身に運ばれるから、それぞれの細胞
は生きられるのです。また、口から食物を取りこみ、胃で消化し、腸で栄養素を吸収し、
その栄養素が血液によって全身に運ばれるから、それぞれの細胞は生きられるのです。
 一つの細胞は、たしかに生命体としては独立しています。しかし「人間」という「生命
維持システム」に組み込まれていなければ、一つの細胞だけでは絶対に生きられないので
す。つまり、ひとりの人間が「60兆個の生命」ではなく、「一個の生命」だと言えるの
は、ひとりの人間が「一つの生命維持システム」になっているからです。

 「大生命」の場合も、これとまったく同じようになっています。「一人の人間」とか、
「一匹の犬」とか、「一本の桜の木」というような個々の生物は、たしかに一個の生命と
して独立しています。しかし、「大生命」という「一つの生命維持システム」に組み込ま
れていなければ、一個の生物だけでは絶対に生きられません。
 ゆえに、地球に生きる個々の生物はすべて、「大生命の細胞」のようなものなのです。
「個々の生物」という「細胞」がすべて集まり、「大生命」という「一つの生命」を作っ
ているのです。

 ところで、人間の体を作っている一つ一つの細胞は、もし細胞に考える能力があったと
しても、「人間の存在」を知ることが出来ないでしょう。なぜなら、個々の細胞という狭
い視点からは、「一個の人間」という全体像を見ることが出来ないからです。
 一つの細胞が知ることのできる世界は、隣どうしの細胞のような、ごく限られたせまい
範囲です。遠くはなれた細胞どうし、たとえば髪の毛の細胞と、足の爪の細胞とでは、お
互いにその存在すら知ることが出来ないでしょう。
 それぞれ個々の細胞は、それらの全体で「人間という一個の生命」を作っていることな
ど、とても理解できません。しかし一つ一つの細胞は、たしかに「人間の一部」を担って
いるのです。

 「大生命」の場合も、これとまったく同じようになっています。それぞれ個々の生物は、
「大生命」の存在を知ることができません。個々の生物が知ることのできる世界は、同じ
家族や群れ、あるいは食うか食われるかと言った、直接的な関係でつながったせまい範囲
です。
 種類も住む場所も、まったく違う生物どうし。たとえば、アフリカのゾウと北極の白熊
とでは、お互いにその存在すら知ることが出来ないでしょう。個々の生物は、それら全体
で「大生命という一つの生命」を作っていることなど、とても理解できません。しかし個々
の生物は、たしかに「大生命の一部」を担っているのです。

 また、その他の比較として、「人間が生まれる過程」を考えてみましょう。そうすると、
その始まりは「受精卵」という「一つの細胞」です。それが分裂して数を増やし、脳や内
蔵、骨、筋肉、皮膚などの、さまざまな細胞に分かれて行きます。そしてそれらが全部そ
ろうと、いよいよ「人間」という「一つの生命」ができ上がるのです。

 「大生命」の場合も、これとまったく同じようになっています。 大生命の始まり(地
球で最初の生命体)は、40億年ほど前に誕生した、ごく簡単な「一個の生命体」だと考
えられています。それが繁殖して数を増やし、さらには進化することによって、細菌、プ
ランクトン、昆虫、植物、動物などの、さまざまな生物に分かれて行きました。そして現
在では、三千万種を越えるとも言われる地球の生物全体で、「大生命」という「一つの生
命」を作っているのです。
 たしかに私たちは、大生命を「自分の生命と同じように」実感することができません。
が、しかし、「大生命」は確かに存在します。地球の生態系、一つの生命維持システム、
一つの生命として、大生命は確かに存在するのです。それが自分の生命のように実感でき
ないのは、たとえば人間を作る一つ一つの細胞が、「人間の存在」を実感できないのと、
まったく同じなのです。
 あなたや私を含めたすべての生物は、「大生命の細胞」です。あなたや私は、大生命の
一部として完全に組み込まれ、受け入れられています。だから、あなたや私が大生命から
切り離されることは、絶対にありえないのです。


6章 大生命に愛されていること
 大生命は「意志」を持っており、その「大生命の意志」により、私たちはつねに愛され
ているのです!
 と、このようなことを言えば、これまた多くの人が怪しげに思うのではないでしょうか?
 しかしながら、たとえば脳を持たない「細菌」のような生物でさえ、ある種の「意志」
と言えるものを持っているのです。それは、細菌が栄養を取りこもうとしたり、増殖しよ
うとしたりする意志です。私はこれを、「生命として生きる意志」と呼んでいます。
 「生命として生きる意志」とは、生命が自ら生き、繁殖し、この世に「生命」というも
のを存続させようとする意志です。
 「生命として生きる意志」を持たない単なる物質、たとえばコンピュ-タ-制御の精密
工作機械などは、それがいくら複雑な構造をしていても、いくら活発に動いていても、い
くら製品を大量に生み出しても、それを「生命」とは絶対に言いません。精密工作機械は、
「自ら生きようとする意志」を持たないからです。だから「生命として生きる意志」とは、
「生命の定義」のようなものです。

 ところで大生命は、地球のすべての生命を生かすための「生命維持システム」でした。
だから大生命は、生態系のバランスをうまく取りながら、地球上にできる限りたくさんの
生命を生かそうとします。そしてこれは、地球の生態系が自らおこなう(つまり大生命が
自らおこなう)自発的な働きです。だから大生命は、地球のすべての生命を生かし、育も
うとする、「自らの意志」を持っているといえるのです。
 また大生命は、およそ40億年前に、ごく簡単な「一つの生命体」として誕生しました。
それが増殖し、進化し、さまざまな生物に分かれて行きました。そして今では、三千万種
を越えるとも言われる、たいへんに複雑な、とても強力で安定した生態系に成長したので
す。だから大生命は、成長し、強くなり、「地球の生命」を永遠に存続させようとする
「自らの意志」も持っています。
 このように大生命は、自らの自発的な意志、つまり「大生命の意志」といえるものを持っ
ているのです。

 私たち個々の生物は、「大生命の意志」を実感することができません。しかしながら、
「生命の進化」や「地球の生態系」などのように、とても大きな時間とスケ-ルで「生命」
をとらえれば、たしかに「大生命の意志」というものが見えてくるのです。それを今、思
いつくままに挙げてみると次のようになります。

 大生命の意志は・・・
 地球のすべての生命を生かし、育もうとします。
 生物の個体数や種類を、できるだけたくさん増やそうとします。また、そうすることに
よって、強くて安定した生態系を作ろうとします。
 海、陸、川、高山、空、寒冷地、熱帯、乾燥地、湿地など、さまざまな地球環境に生物
を適応させて、生命圏を広げようとします。そして、地球上を生命でいっぱいにしようと
します。
 世代交代や進化をくり返しながら、この地球に「生命」というものを、永遠に存続させ
ようとします。(そのような意志が働いているから、生命は40億年も存在し続けている
のです!)

 このように「大生命の意志」は、できるだけたくさんの生命を生み、育て、守ることに
よって、生命を永遠に存続させようとします。つまり「大生命の意志」は、生命の存在を
望み、それを祝福しているのです。
 これを大生命の愛、「大愛」と呼びたいと思います。私たち地球のすべての生命は、
「大愛」によって愛されているのです。
 すべての生命を生かそうとする、大生命の愛。
 できるだけたくさんの生命を育もうとする、大生命の愛。
 地球の生命を永遠に存続させようとする、大生命の愛。
 これらの愛のすべてが「大愛」なのです。もちろん、酸素や食物を私たちに与えてくれ
るのも大愛の働きです。
 大愛が存在しなければ、私たちは生きることができません。大愛のまったく存在しない
場所とは、たとえば「宇宙空間」です。宇宙空間には、酸素も食料もありません。生身の
体で宇宙空間に放り出されたら、すぐに死んでしまいます。だから大愛が存在しなければ、
私たちは絶対に生きることが出来ないのです。

 ところで地球には、とても有害な「太陽の紫外線」が降りそそいでいます。この紫外線
はたいへんに危険で、これを直接に浴びれば、どんな生物も確実に死んでしまいます。そ
れなのに地球に生物が住めるのは、空の上に「オゾン層」というものがあるからです。オ
ゾン層が、太陽の紫外線を遮ってくれるのです。
 このオゾン層は、酸素から作られます。だから地球の大気に酸素がなければ、オゾン層
はできません。たとえば、太古の地球では大気に酸素がほとんど無く、オゾン層もありま
せんでした。だからその時代は、生物は水の中にしか住めませんでした。水は、紫外線を
遮るからです。

 その後、生物が陸に住めるようになったのは、空の上にオゾン層ができたからです。そ
してオゾン層ができたのは、水の中に住んでいた植物が酸素をたくさん作り、それを大気
中に放出したからです。つまりオゾン層は、「生命の働き」によって作られたのです。
 今の地球環境が生命に適しているのは、生命が何億年もかけて、地球の環境を整えてき
たからです。そしてこれは、地球上にできるだけたくさんの生命を育もうとする、大愛の
働きです。酸素やオゾン層のある「地球環境そのもの」が大愛なのです。

 ところで、大気中の酸素は多くても少なくてもいけません。酸素が多くなると、物が燃
えやすくなるからです。純粋な酸素の中では、鉄でさえも火花をあげて燃えてしまいます。
酸素が今よりも多くなれば、世界中のいたる所で火事が起こります。とくに、大規模な森
林火災が頻発するのではないでしょうか。
 また、大気中の二酸化炭素も、多くても少なくてもいけません。「温室効果」と言って、
二酸化炭素は地球の熱を逃がさないようにする働きがあるのです。二酸化炭素が今より多
くなると、地球の温暖化によってさまざまな問題が起こります。氷河が溶けたり、海の水
位が上がって沈んでしまう国がでたり、地球の生態系が大きく乱されたり、気象が大きく
変わったりします。逆に、二酸化炭素が今より少なくなれば、地球は寒冷化して氷河期の
ようになってしまうでしょう。
 大気中の酸素や二酸化炭素の割合は、地球の生命全体によって調節されています。これ
も、大生命ができるだけたくさんの生命を育もうとする、大愛の働きなのです。

 このように、「大愛」によって愛されなければ、どんな生命も生きることができません。
 あなたや私が「今ここに生きて存在している!」という、まさにその事実が、「大生命
に愛されていること」の絶対的な証拠なのです。


7章 大生命の役に立っていること
 人間は例えば、
 「おまえは役立たずだ!」と、周りの人々から言われたり、
 「自分は何の役にも立たない!」とか、
 「自分は、家族や世間のやっかい者だ!」
などと思い込んでしまうと、どうしても自己否定に取りつかれてしまいます。なぜなら人
間は、「社会的な動物」だからです。
 人間が自己愛を持つためには、どんなことでも良いから、「自分は何かの役に立ってい
る!」と思えることが、どうしても必要なのです。

 しかし安心して下さい!
 あなたや私を含めたすべての生命は、必ずなにかの形で「大生命」の役に立っています。
だから「無意味な生命」などと言うものは、この世に一つも存在しないのです。

 地球のすべての生命が、「大生命の役に立っている!」といえるのは、それらすべてが
「生命の仕事」を行っているからです。
 ところで「生命の仕事」とは、「大生命の意志」に貢献する、生命活動のすべてです。
そして「大生命の意志」とは、地球のすべての生命を生かし、育もうとする、「大愛」の
ことでした。
 だから「生命の仕事」とは、「大愛」に貢献する、生命活動のすべてのことです。大愛
に貢献する、あらゆる生命のあらゆる活動が、「生命の仕事」なのです。

 たとえば植物が、地球のすべての生命に酸素と食料を与えているのは、生命の仕事です。
 さまざまな生物が、弱肉強食の生存競争を生きのこり、子孫を産み育てて行くのも、生
命の仕事です。
 そしてまた・・・ 食物連鎖も「生命の仕事」です。
 食物連鎖がなければ、すべての生命が生きられないからです。たいへん悲しいことです
が食物連鎖は、地球のすべての生命を支えるための、とても大切な生命の仕事なのです。
 ところで、食べられてしまう植物や動物は、ただ単に弱いから食べられてしまい、それ
で終わりなのではありません。自分が食べられることによって、他の生命を養っているの
です。自分の生命を犠牲にして、他の生命を支えているのです。また、自分が食べられる
ことによって、その種族が増えすぎるのを防ぎ、自分の種族を守ることにもなっています。
このように、食べられてしまう生命がいるからこそ、地球のすべての生命が生きられるの
です。
 たしかに食物連鎖は、生命界に大きな苦しみを与えています。その事実を否定すること
は出来ません。しかしながら、地球のすべての生命を生かし、育むためには、食物連鎖が
どうしても必要です。だから食物連鎖は、とても大切な生命の仕事なのです。
 さらに「生命の仕事」のほかの例では、微生物が動物の糞や死骸を分解して土に返すこ
と。あるいは、さまざまな生命がいろいろな環境に適応し、地球の生命圏を広げて行くこ
と。などなどが挙げられます。

 つぎに、人間の行っている「生命の仕事」について、いくつか例を挙げてみましょう。
 たとえば結婚して家庭をつくり、子供を産み育てることは、「人類」を未来につなげる
ための、とても大切な生命の仕事です。
 農業、漁業、畜産業の仕事をして「食べもの」を提供し、たくさんの人々の命を支える
ことも大切な生命の仕事です。
 また、その他の例では、
 工場で働き、生活に必要な製品をつくること。
 流通や小売業で働き、生活に必要な品物を、たくさんの人々に提供すること。
 医療の仕事にたずさわり、病気や怪我で苦しんでいる人々を助けること。
 教育、文化、芸術の仕事をして、人々の心を豊かにすること。
 スポ-ツや芸能の仕事をして、多くの人々に喜びと感動を与えること。
 難民の救援や、平和を維持するための活動を行うこと。
 このような、人類がより良く生きるために行われる仕事は、すべて生命の仕事なのです。
 さらには人類だけでなく、地球の生命全体に貢献する仕事も、生命の仕事です。
 たとえば、地球環境や生態系を研究して、その破壊を未然に防ぐこと。
 絶滅しそうになっている動物や植物を救うこと。
 自然環境や野生動物を保護し、それらを守って行くこと。
 このように、人類全体や生命全体のために行われる仕事であれば、そのすべてが生命の
仕事なのです。

 しかし生命の仕事とは、特にすごいことをしなくても良いのです。なぜなら、あらゆる
生命は「生きること」によって、すでに立派な「生命の仕事」を行っているからです。
 大生命の意志・・・つまり大愛は、「地球のすべての生命が生きること」を望んでいま
す。だから、個々の生物が一生懸命に生きることは、「大愛」に貢献する立派な生命の仕
事なのです。
 そして例えば、今あなたが呼吸をするだけでも、それは立派な生命の仕事なのです。な
ぜなら、あなたの出した二酸化炭素は、必ずどこかで他の生命の役に立っているからです。
植物が育つために使われるか、サンゴや貝の殻に使われるか、地球を適度な温度に保つた
めに使われるかして、あなたの出した二酸化炭素は役に立っているのです。
 近ごろは、二酸化炭素の増加による地球の温暖化が問題にされているので、二酸化炭素
を出すことに良いイメージがありません。しかし、あなたの呼吸で出された二酸化炭素が、
ほかの生命の役に立っていることも確かな事実なのです。
 ところで、地球環境を悪化させるほどの二酸化炭素の増加は、動物の呼吸によるもので
はありません。ガソリンや石油を使うことによるものです。だから自動車の使用を少し控
えたり、冬の暖房を少し控えるだけでも、それは立派な生命の仕事なのです。
 そしてまた、あなたが毎日の食事を食べることも、立派な生命の仕事です。あなたが食
事を取ることによって、たくさんの人々の生活が支えられているからです。農業の人、漁
業の人、畜産業の人、運輸や流通にたずさわる人、小売り業の人、飲食店の人・・・。そ
してさらには、その人たちの子供や家族。
 あなたが毎日の食事を食べることによって、これらたくさんの人々の命を支えているの
です。

 このように「生きること」は、それだけで立派な生命の仕事なのです。しかしながら
「生きること」には、苦しみが伴うことも否定できません。
 しかしそれでも、苦しみに耐えて一生懸命に生きることは、すべての人間にとって、い
やすべての生命にとって、まず第一にやらなければならない「最も大切な生命の仕事」な
のです!
 なぜなら、地球の生命全体が、それによって支えられているからです。そしてこれは、
あなたについても言えることです。あなたが一生懸命に生きることで、必ずどこかで「他
の生命を支えている」からです。
 だからあなたは、力のかぎり生き抜くことで、立派に「大生命の役に立っている」ので
す。


8章 生命の意義は死んでも消滅しない
 人間は、苦しみに耐えて一生懸命に生きても、どうせ最後には死んでしまいます。そし
て死ねば、家族や友人、地位や財産、名誉や業績など、生きているときに得たものの全て
が「無意味」になってしまいます。つまり人間は、結局「死んで無意味になるため」に生
きているのです。
 それならなぜ、わざわざ苦しみに耐えてまで、生きなければならないのでしょう? 

 「人間は、いつか必ず死ぬ!」
 「そして死ねば、すべてが無意味になる!」
 「だから結局、生きることは全て無意味なのだ!」

 大生命は、このような「生きることの無意味さ」から、あなたを救ってくれます。
 なぜなら、あなたの「生命の意義」は、あなたが死んでも絶対に消滅しないからです。
というのは、生命の仕事の「波及効果」が、大生命の中で永遠に生きつづけるからです。

 生命の仕事とは、地球のすべての生命を育もうとする大生命の意志、つまり「大愛」に
貢献する、あらゆる生命のあらゆる活動のことでした。そしてまず第一に、それぞれの生
物が精一杯に生きることが、最もたいせつな生命の仕事でした。だからあなたにとっては、
あなたが一生懸命に生き抜くことが、あなたの最もたいせつな生命の仕事でした。
 この、あなたが一生懸命に生きることでなされる、あなたの生命の意義。つまり、あな
たがこの世に生きて存在したことの意義は、あなたが死んでも絶対に消滅しません。なぜ
なら、あなたの「生命の仕事の波及効果」が、大生命の中で永遠に生きつづけるからです。
 一般にあらゆる生命がおこなう、あらゆる生命の仕事に、「波及効果」が存在します。
そしてこの波及効果は、その生物個体が死んでも消滅しないだけでなく、その生物種が絶
滅してさえ、途切れることがありません。
 たとえば「子孫をのこす」という生命の仕事は、子々孫々と受けつがれていき、その
「波及効果」は大生命の中で永遠に生きつづけます。そしてこれは、「個体の死」によっ
て消滅しないだけでなく、「種の消滅」によっても途切れることがないのです。

 というのは、たとえば猿人や原人など、私たち人類の直接の祖先も、「種」としてはす
でに消滅してしまいました。しかし、「子孫をのこす」という「生命の仕事の波及効果」
は、現代の私たちまで確かに続いているからです。
 さらに祖先をさかのぼれば、4億年前の魚類、6億年前の軟体動物、さらには40億年
前に生まれた地球で最初の生命体・・・。これらはみな、私たちの直接の祖先です。彼ら
も、今は種として存在しません。しかし、「子孫をのこす」という「生命の仕事の波及効
果」は、現在の私たちまで確かに続いているのです。

 ところで、生命の仕事の波及効果は、時間が経てばたつほど、その影響が大きくなって
行きます。
 たとえば、400万年前に木から降りたサルの「生命の仕事の波及効果」は、今では人
類全体の繁栄となっています。
 4億年前に、水から陸に上がった魚の「生命の仕事の波及効果」は、今では陸上のすべ
ての動物の繁栄となっています。
 30億年前に、太陽の光で生きることに成功した生物の「生命の仕事の波及効果」は、
今では植物全体の繁栄となっています。そして酸素と食物をつくり、地球のすべての生命
を支えています。
 そして、40億年前に生まれた地球で最初の生命体・・・。この「生命の仕事の波及効
果」は、今では三千万種を越えるとも言われる、地球の生命全体の繁栄となっているので
す。
 このように時間が経てばたつほど、「生命の仕事の波及効果」があたえる影響は大きく
なるのです。

 ところで・・・4億年もの昔、なぜだか知らないけれど、あるとき一匹の魚が陸に上が
ろうと試みました。そして他の者も、次々と後からそれに続きました。ある者は陸の上で
動けなくなり、干からびて死んだことでしょう。しかし仲間が次々と死んでも、他の者が
その後に続きました。魚たちは、上陸への挑戦を決してあきらめませんでした・・・。

 この魚たちの、命がけの「生命の仕事」のお陰で、すべての陸上動物が存在できるので
す。4億年前の魚の上陸がなかったら、もちろん人類も誕生しませんでした。だから、今
ここに私たちが存在できるのも、この魚たちのお陰なのです。
 陸を目指した一匹一匹の魚たちは、顔も名前も分かりません。その「種」さえも、今は
存在しません。しかし、その一匹一匹の魚たちの「生命の仕事」が、人類を誕生させ、今
ここにあなたや私を存在させているのです。
 このように、4億年も前に行われた「生命の仕事の波及効果」が、今もたしかに、あな
たや私の中に生きているのです。

 あなたの行なう生命の仕事も、これとまったく同じです。

 あなたの行なう生命の仕事は、生命全体から見ればとても小さなものです。何億年もの
時間が経てば、あなたの顔や名前を知るものは誰もいないでしょう。それどころか、人類
という種さえ絶滅していると思います。
 しかしその時にも、あなたの「生命の仕事の波及効果」は、たしかに生きているのです。
しかも、波及効果が波及効果を呼んで、その影響は限りなく大きなものになっているでしょ
う。もしかしたら、あなたが偶然に助けた小さな生き物の、まさにその直接の子孫が、数
億年後に人類よりも進化した生物として繁栄しているかも知れないのです。

 あなたの「生命の仕事の波及効果」は、あなたが生きてこの世に存在したことの「証し」
です。

 つまりそれは、「あなたの生命の意義」なのです。

 この、「あなたの生命の意義」は、あなたが死んでも絶対に消滅しません。それどころ
か、それは大生命の中で永遠に生きつづけ、限りなく大きくなって行きます。
 だから、「どうせ死ねば全てが無意味になるのだから、結局、生きることは全て無意味
なのだ!」とか、「自分は、この世に生まれても生まれなくても、まったく同じなのだ!」
などと言うことは、絶対にありえないのです。


9章 生命の絶対価値
 すべての生命は、「絶対価値」というものを持っています。
 現代社会で自己否定がはびこるのは、多くの人が「自分の絶対価値」を知らず、「相対
価値」ばかりを追い求めていることも、その原因の一つだと思います。だから私は、「自
分の絶対価値」というものを、もっと皆さんに知ってほしいのです。
 しかしながら、「絶対価値」とか「相対価値」などと突然に言っても、何のことか分か
りにくいでしょう。そこでまず、「絶対価値」と「相対価値」について、すこし説明させ
てください。

 「絶対価値」とは、「その人にしか出来ないこと」によって生じる価値です。ほかの人
間に取って代わることのできない、その人の絶対的な価値です。
 「絶対価値」の代表的なものには、たとえば、偉大な人物のなしとげた仕事などがあり
ます。釈迦、キリスト、ソクラテス、レオナルド・ダ・ビンチ、シェ-クスピア、ベ-ト-
ベン、アインシュタイン・・・などなど。彼らが行なった仕事は、彼らだからこそ為し遂
げられたものです。ほかの人間には、絶対に真似ができなかったことです。
 だから「絶対価値」は、ほかの人間が取って代わることのできない、その人の絶対的な
価値なのです。

 一方「相対価値」とは、「他人との競争に勝つこと」によって生じる価値です。
 「相対価値」の代表的なものには、たとえばスポ-ツ競技の「優勝」や、大学受験の
「合格」などがあります。スポ-ツ競技や大学受験は、心身に大きな障害のない人ならば、
誰にでも行なえることです。もちろん、人によって上手下手はあります。しかし、手足が
まったく動かないとか、目が見えないとか、文字が読めないなどの大きな障害がないかぎ
り、ふつうの人間ならば誰にでも行なえることです。
 だから「相対価値」は、「その人にしか出来ないこと」に価値があるのではなく、「他
人との競争に勝つこと」に価値があるのです。

 相対価値は、「競争」をしないと価値が生まれません。なぜなら、「相対価値そのもの」
には、価値が存在しないからです。たとえば、スポ-ツ競技で全員を優勝にしたり、大学
受験で全員を合格にすれば、「優勝」や「合格」の価値は無くなってしまいます。それは
優勝や合格「そのもの」には、価値が存在しないからです。

 一方「絶対価値」は、競争をしなくても価値が無くなりません。「絶対価値そのもの」
に、しっかりと価値が存在しているからです。そしてそもそも、絶対価値は「競争が不可
能」です。なぜなら、絶対価値は「その人にしか出来ないこと」による価値だからです。
 たとえば釈迦やキリストが行ったことは、他人との競争に勝ったから価値があるのでは
ありません。彼らの人格や言動「そのもの」に価値があるのです。彼らの行ったことは、
彼らにしか出来なかったことです。だから彼らと競争をすることは、絶対に不可能なので
す。
 (ここで誤解を招かないようにお断りしますが、「スポ-ツを行うこと」や「大学教育
を受けること」には、もちろん価値があります。スポ-ツや学問によって心身をきたえた
り、友人の輪を広げたり、自分の人生を深めたり充実させること。そのような「競争をし
なくても無くならない価値」が、しっかりと存在するからです。)

 また相対価値は、「その人間である必要」がありません。誰でも良いのです。
 たとえばスポ-ツ競技の「優勝」は、競技に勝った者ならば誰でもかまいません。大学
受験の「合格」は、成績のよい者ならば誰でもかまわないのです。それは相対価値が、そ
の人だけがもつ絶対的な価値ではないからです。だから相対価値は、いつでも誰にでも取っ
て代わることができます。また逆に、いつ誰が取って代わっても、何の問題も起こりませ
ん。
 一方「絶対価値」は、他人に取って代わることが絶対にできません。それは既にお話し
たように、絶対価値は「その人にしか出来ないこと」による価値だからです。

 ところで・・・自分の絶対価値を忘れさり、受験競争や出世競争などの相対価値ばかり
を追い求めていると、自己否定に取りつかれてしまいます。
 なぜなら、相対価値には「競争の苦しみ」がいつも絶えないからです。相対価値を得る
ためには、競争に勝たなければなりません。そして相対価値を保ち続けるためには、つね
に勝ち続けなければなりません。そのため相対価値には、「競争の苦しみ」が常につきま
とうのです。このように、いつまでも終わることのない苦しみを受け続ければ、生きるこ
とが辛くなってしまうのも当然です。
 さらに相対価値は、不安や焦燥も絶えません。相対価値は、競争に負ければ誰にでも取っ
て代わられるからです。そして永遠に勝ち続けることは不可能ですから、相対価値はいつ
か絶対に失います。それで不安や焦燥が常につきまとうのです。
 このような、決して終わることのない競争、苦しみ、不安、焦燥・・・。これらによっ
て、相対価値を追求すれば自己否定を招いてしまうのです。
 それでもまだ、勝ち続けているうちは良いのです。しかし負けた時に、自己否定にはげ
しく取りつかれるのです。そしてどんな人間でも、必ず負けるときが来るのです。
 一方「絶対価値」は、競争の必要がありません。また、他人に取って代わられる心配も
ありません。絶対価値の追求は、競争による苦しみ、不安、焦燥がまったくないのです。

 ところで「絶対価値」を得るためには、特にすごいことをしなくてもかまいません。な
ぜならあなたは、「生きること」で立派な絶対価値を持っているからです。というのは、
あなたと全く同じ「生命の仕事」ができる人間など、この世に一人も存在しないからです。
 あなたと全く同じ時代に生き、まったく同じ場所で生活し、まったく同じ言動をし、他
の生命に対してまったく同じ影響を与えること・・・。そんなことなど、あなた以外の人
間にできる訳がないからです。
 つまり、あなたの人生はあなただけのものであり、ほかの人間には絶対にまねが出来な
いからです。あなたが行う生命の仕事は、あなたにしか出来ない、この世で唯一無二のも
のです! だからあなたは、すでに立派な絶対価値を持っているのです。

 そしてさらには、人間だけでなく、「絶対価値」はすべての生命が持っています。なぜ
なら個々の生命のすべてが、その生命にしかできない、独自の「生命の仕事」を行ってい
るからです。
 ゆえに、すべての生命が「絶対価値」を持っているのです。私はそれを、「生命の絶対
価値」と呼びたいと思います。

 すべての生命は、「絶対価値」を持っています。
 だから「無意味な生命」など、この世に一つもありません。
 ゆえに、すべての生命は尊重されなければならないのです。
 そしてそれは、「あなたの生命」についても、まったく同様に言えるのです。


10章 自己愛の感覚
 自己愛を頭で理解するだけでなく、
 「生きることは素晴らしい!」
 「この世に生まれて良かった!」
 と、人間が心の底から実感できるのは、「自己愛の感覚」というものが、実感として確
かに存在するからです。
 「自己愛の感覚」とは、自己愛が生じたときに感じる、心や体の実感です。ここでは、
この「自己愛の感覚」について、お話したいと思います。

 しかしその前に、かつて私が経験したことのある、「自己否定の感覚」についてお話し
たいと思うのです。
 というのは、自己否定に苦しんでいる人には、「自己否定の感覚」はすぐに理解できま
すが、「自己愛の感覚」はまったく理解できないか、そのような感覚が存在するのさえ、
信じることができないと思うからです。かつて、自己否定に取りつかれていた時の私がそ
うでしたから・・・。それで、いきなり最初から「自己愛の感覚」についてお話しても、
自己否定に苦しんでいる人には聞く耳を持ってもらえないと思ったわけです。
 しかしながら、「自己愛の感覚」は確かに存在します。かつて自己否定に苦しんでいた
私にも、いまは確信を持ってそれを言うことができます。
 だからまず、「以前は自己否定に取りつかれていた人間でも、努力と工夫しだいで、自
己愛を感じられるようになるのも事実なのだろう」と、いう気持ちで読んでほしいと思っ
ています。

 さて次に、かつて私が経験したことのある、「自己否定の感覚」について挙げてみましょ
う。

 息が詰まり、吐き気がする。
 胃の中に、ズンと重たい石が入っている感じ。
 胸がしめつけられるような緊張。
 わけの分からない漠然とした不安。
 何かに追いつめられるような焦燥。
 周りの物音や人の声にビクビクし、それがとても気になる。
 理由もなく、ドキドキと動悸がはげしくなる。
 ジトーッと冷汗がでる。
 他人がまったく信用できない。
 周りの人間がすべて敵に感じる。
 人に会いたくない。
 何となく情けない。
 自分がとても孤独に感じる。
 何をやってもうまく行く気がしない。
 あらゆることが、無意味でムダに感じる。
 何もやりたくなくなる。
 呼吸をするのさえ面倒になる。
 絶望と喪失感。
 わけの分からない罪悪感。
 自分が何か悪いことをしているように感じる。
 自分が存在しては、いけないように感じる。
 自分が生きていては、いけないように感じる。
 「自分は生まれなければ良かったのに!」と感じてしまう。

 心の健康な人にはちょっと分かりにくいのですが、これら「自己否定の感覚」というの
は、じつに苦しいものです。このような状態が何年も続けば、生きているのが嫌になって
しまうのも無理はありません。
 私は、大学生のときに冬山登山などを経験しましたが、そのときの経験よりも精神的に
は苦しく感じます。40キロ近くの荷物を背負い、息を切らして胸まで埋まる雪をこぎ、
手と足の指全部と、顔の一部が凍傷にかかったこともありました。しかし、そのときの体
験よりも、「自己否定の感覚」の方がさらに苦しいのです。

 つぎに、私の経験した「自己愛の感覚」について挙げてみます。

 なにか良いことが起こりそうな感じ。
 ドキドキ、ワクワクする。
 全てうまく行きそうな感じがする。
 何でもやりたくなる。
 落ちついて安らいだ気分。
 恐れ、不安、焦燥が全くない。
 腹の底から、元気と勇気が湧いてくる。
 なにか優しいものに包まれ、守られているような感じ。(たとえば妊娠中の胎児のよう
に、「母親の子宮のなかで暖かく守られている」というような感じ。)
 「大いなるもの」に抱かれている感じ。
 「やさしい空気」に全身が包まれている感じ。
 「暖かい光のシャワー」を全身に浴びている感じ。
 「自分の存在」を好ましく感じる。
 「生きていて良かった!」と感じる。
 「この世に生まれて良かった!」と感じる。
 この世に、自分が生きて存在することが、嬉しくて嬉しくて仕方がなくなる。そしてそ
れが、涙が出るほどありがたく感じる。

 これら「自己愛の感覚」が存在することなど、自己否定に苦しんでいる人には、とても
信じられないと思います。しかし、このような実感はたしかに存在するのです。
 この「自己愛の感覚」を実感することができれば、自己愛への確信が生まれます。「生
きることは、やはり素晴らしいのだ!」というのが、わざわざ議論や考察をするまでもな
く、ごく当たり前に感じられるのです。

 しかしながら、ここで大きな問題が立ちはだかっています。
 それは、「一体どうやったら、自己愛の感覚が持てるのか?」という問題です。
 これは、たいへんに大きな問題だと私は考えています。たとえばそれは、宗教や哲学、
心理学、脳生理学、精神医学などの分野で、主要なテ-マになるほどの大きな問題ではな
いでしょうか?

 そしてまた、自己愛の感覚をつかむきっかけも、人によって実にさまざまです。
 宗教への信仰や、長年にわたる瞑想や修行によって。
 精神医療や、カウンセリングによる治療によって。
 素敵な人との出会いや、ちょっとしたきっかけによって。
 九死に一生を得るような、重大な事件との遭遇によって。
 などなど、それこそ人によって千差万別です。

 それらすべてを網羅することは、とても私にはできませんし、そもそも私に、そんな能
力などありません。せいぜい私にできることは、私のせまい経験と知識にもとづいた考察
だけです。
 しかしそれでも、皆さんの誰かにとって、何か役に立つことや、参考になることがある
かも知れません。だから、私の思ったことや考えたこと、あるいは感じたことなどを、で
きる限りお話して行きたいと思っています。



 つづく



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