どうか生きることを愛して下さい 1
                             2024年1月28日 寺岡克哉


 ホームページの引っ越し先である、ここ、「さくらのレンタルサーバー」は、
容量が100ギガバイトもあります。

 そして一方、本サイトは文章が主体なので、100ギガバイトという莫大な
容量は、使い放題に使っても、使いきれないぐらいの大きさです。

 それで今回から、機会があれば出版したいと思って書いておいた本の原稿を、
本サイトにアップロードして行きたいと考えました。

 と、いうのは、以前のODNのサーバーでは、容量が30メガバイトと小さく、
そんな余裕が無かったからです。

 ちなみに本の題名は、「どうか生きることを愛して下さい」です。

 これは、2002年3月~2003年5月にかけて書いたエッセイの中から、
題名の趣旨に沿ったものを抜粋して、書籍用としてまとめ直したものです。

 それでは以下、本の原稿を紹介して行きましょう。


***********************************


 どうか生きることを愛して下さい


目 次

    巻頭言

    序 自殺の背景

第1部 自己否定から自己愛へ
  1章 自己否定からの解放
  2章 生きる拠り所
  3章 大生命
  4章 自己愛を持つためには
  5章 大生命に受け入れられていること
  6章 大生命に愛されていること
  7章 大生命の役に立っていること
  8章 生命の意義は死んでも消滅しない
  9章 生命の絶対価値
 10章 自己愛の感覚
 11章 呼吸ができるということ
 12章 自己否定のエネルギーを自己愛に向ける
 13章 自己愛を持つための具体的な方法
 14章 自己愛の訪れ
 15章 自己愛の増幅循環
 16章 自己愛の落とし穴

第2部 自己愛から愛の完成へ
 17章 生命の肯定と生命の否定
 18章 生命の肯定とは愛である
 19章 生命に意味を与えるのも愛である
 20章 欲望や快楽は生命の意義になりえない
 21章 無限の欲望と根源的な苦
 22章 生命の肯定は自己愛から始まる
 23章 自己愛と隣人愛の増幅循環
 24章 隣人愛の具体例
 25章 愛の増減法則
 26章 愛を与えることが幸福の本質である
 27章 与える愛について
 28章 無限の欲望を愛の増大に向ける
 29章 「求める愛」を満たしてくれるもの
 30章 大生命と神
 31章 真の生命
 32章 理性と感性
 33章 最高の愛
 34章 愛の完成

    あとがき




巻 頭 言 

 どうか、生きることを愛して下さい!

 生きることを愛せば幸福です。
 生きることを憎んでしまったら、地獄の苦しみです。
 「生きる意味」の問題は、結局、それに尽きるのではないでしょうか?

 しかし・・・ 一体どうしたら、生きることを愛せるのでしょう? 
 生きることを憎む者にとって、生きることを愛するのは、とても難しいのです。
 万人に効く特効薬など、存在しないのが現実だと思います。

 しかしそれでも・・・
 私が考えたことの何か一つでも、たった一つの言葉でも、どこかで誰かの役に
立てばと心から願い、この本を書きたいと思いました。




序 自殺の背景

 現代の日本では、いじめ、虐待、引きこもり、不登校、リストラ、倒産、ニ-ト、そし
て鬱病などで、とても多くの人々が「生きる辛さ」を感じています。それは、毎年2万人
以上もの自殺者が出ていることからも明らかです。
 インターネットで自殺系サイトの掲示板を見ると、自殺を考えている人がとても多いこ
とに、本当に驚かされます。

 現代社会では、どうしてこんなに、自殺を望む人が多いのでしょう?

 この本の最初にあたり、それについて私の思うことを、率直にお話しておきたいと思い
ます。
 しかし、誤解をされると困るのでお断わりしますが、私は自殺を勧めたり、自殺を肯定
したり、自殺を正当化しようというのでは決してありません。これからお話することは、
そのように受けとられてしまう恐れもあるのです。
 しかしながら、このような考察を抜きにして(つまり自殺の本質的な背景を無視して)、
「とにかく一生懸命に生きろ!」と頭ごなしに言っても、自殺を本気で考えている人の心
には届かないし響かないと思うのです。
 私は、つぎにお話する「自殺の背景」を重々承知した上で、しかしそれでもなお、生き
ることを肯定しようとしているのです。

          * * * * *

 とにかく、「生きること」は苦しみの連続です。
 とくに、生きることを辛く感じている人には、毎日がまるで拷問のようでしょう。
 長年にわたって「いじめ」や「虐待」を受けていたり・・・
 引きこもりやニートで、社会に適応できなくなったり・・・
 リストラや倒産で、仕事を失ったり・・・
 仕事を捜しているのに、ぜんぜん見つからなかったり・・・
 多額の借金を抱えていたり・・・
 過労死をするギリギリまで働かされたり・・・
 体が不自由だったり・・・
 不治の病を患っていたり・・・。
 そのような「死ぬよりも辛い苦しみ」を、何年も、ひどい場合には何十年も受け続けて
いる人が、世の中にはたくさんいることでしょう。

 ところが一方、「死」は苦しみではありません。
 たしかに、私が「自分の死」に直面すれば、たいへんな苦しみと恐怖を感じることでしょ
う。しかし完全に死んでしまったならば、「死そのものは苦しみではない!」という確信
を私はもっています。

 なぜなら、死後には一切の認識が存在しないからです。

 このように、「認識が存在しない状態」という意味では、「死とは、生まれる前とまっ
たく同じ状態だ!」と言えます。だから、死後のことを考えるには、生まれる前のことを
考えれてみれば良いのです。
 「生まれる前」とは、時間さえも感じることのできない世界です。たとえば私が生まれ
る前には、何億年もの時間が存在していたはずですが、しかし私は、そのような長い時間
を一秒にも感じることが出来ませんでした。
 同じように、私の死後に何億年もの時間が経っても、私はそれを一秒にも感じることが
出来ないでしょう。

 また、「認識が存在しない状態」という意味では、「熟睡」をしているときも、死とまっ
たく同じ状態だといえます。なぜなら、熟睡中には時間を一瞬にも感じられないからです。
 たとえば私が熟睡中に、頭を金属バットで一撃のもとにたたき割られ、即死させられた
としましょう。それでも私は、「なんの変化も感じることが出来ない」と思います。だか
ら「死」と「熟睡」は、まったく同じ状態なのです。
 つまり私たちは、毎日のように「死」を経験していると言えるのです。

 さらにまた、現代では「救急医療」が発達し、呼吸や心臓が止まって意識不明になった
状態から、蘇生する人が増えています。
 だから、「死とは認識の存在しない状態であり、苦しみではありえない」ということが、
今後ますます広く知れ渡ってしまうでしょう。
 事実、私が聞いた話の中にも、呼吸と心臓が止まって意識不明になった状態から蘇生し
た人がいます。むかしの時代なら、まず間違いなく死んでいたでしょう。原因は明らかで
はありませんが、脳梗塞と心臓病の合併症のようなものだそうです。
 その人の話によると、自宅の階段を上がろうとした時に、とつぜん体に力が入らなくなっ
て呼吸ができなくなり、そのまま意識が薄らいで行ったそうです。そして気がついたら、
救急病院の集中治療室のベッドで寝ていたそうです。意識が無くなるまでに、とくに「苦
しみ」は感じなかったそうです。
 このような「救急医療の発達」により、死は苦しみではないし、死後の世界など存在し
ないことが、身近な人の証言として聞くことが出来るようになりました。
 たぶん、睡眠薬や一酸化炭素による自殺未遂をした人も、同じような体験をしているの
ではないでしょうか?

 以上から、死は苦しみではありえないのです。
 もちろん、「天国」や「地獄」も存在しないし、「暗黒の中の孤独」なども感じること
は出来ません。死後の世界では、「苦しみ」や「孤独」を感じている暇や時間など、まっ
たく存在しないのです。

 ところで・・・ すべての人間は、必ず死んでしまいます。
 人間として生まれたからには、いつか絶対に死ななければなりません。すべての人間が、
100パーセント確実に死ぬのです。死を免れることのできる人間など、この世に一人も
いません。

 それならどうして、わざわざ苦しみに耐えてまで、生きなければならないのでしょう?

 苦しみながら長々と生きても、今すぐに楽に死ねる方法で自殺をしても、どうせ死ぬこ
とには変わりがないのです。
 しかも今では、練炭を使った「一酸化炭素中毒による死」などは、苦しくも何ともない
ことが広く知られてしまいました。
 長く生きれば生きるほど、ただ意味もなく「苦しみ」を受け続けるだけです。たとえ
「欲望」や「快楽」をいくら追求したところで、それは他人との衝突や争いを激しくする
だけで、「苦しみ」が減らないどころか、ますます増えて行くばかりです。

 このように考えてくると、この世に生まれないことが最高の幸福であり、不幸にして
生まれてしまった者は、死ぬのが早ければ早いほど幸福であると思えてきます。

 そしてついに、「自殺」という手段が、唯一の「救いの道」に感じられるのです。

 あとは、
 「誰にも知られずに死ぬのは、やりきれない!」とか、
 「一人で死ぬのは、やはり恐い!」
 「一人ぼっちで死ぬのは、さみしい!」
 という思いだけが、自殺を決行する唯一の弊害となるのでしょう。それで、インター
ネットを使って「自殺予告」をしたり、「自殺仲間」を集めることに狂奔するのだと思い
ます。

          * * * * *

 ところで、これまでの考察から、
 自殺をすれば、死ぬ直前の苦しみを永遠に受ける!
 自殺をすれば、暗黒の世界を一人で永遠にさまよい続ける!
 自殺をすれば、地獄に落ちて永遠の苦しみを受ける!
 自殺をすれば、この次の輪廻で、畜生道などの悪い所に生まれ変わる!
 などと言うような「子供だましの誤魔化し」は、もはや通用しなくなったことが分かり
ます。
 だから現代の自殺をする人々は、宗教をはじめからバカにして否定し、まったく聞く耳
を持たないのでしょう。

 やはり、これからの時代は、
 「生きること」が苦しみであっても・・・
 欲望や快楽の追求が、生きる意義にならなくても・・・
 「死」が、苦しみでないと分かっていても・・・
 「死後の世界」や「生まれ変わり」など、存在しないことが分かっていても・・・
 そして、どうせいつかは「必ず死ぬ」と分かっていても・・・

 しかしそれでも、
 生きることには価値があり、意味があるのだ!
 という生命観を構築することが、どうしても必要になって来たように思います。

 まさに私は、そのために、この本を書こうとしているのです。




第1部  自己否定から自己愛へ

1章 自己否定からの解放
 「生きることが辛い・・・。」
 「胸がしめつけられ、吐き気がし、息が詰まりそうだ。」
 「なぜ、そうまでして生きなければならない?」
 「なぜ、死んではいけない?」
 「生きるのなんか、もうたくさんだ!」
 現代社会では、このような思いに苦しむ人がとても増えています。それは、自殺をする
人の割合が高くなっていることから明らかです。このように、自分の生きる意味を否定し
てしまうことを、私は「自己否定」と呼んでいます。

 私も以前は、自己否定に取りつかれて苦しんでいました。生きることが辛くてたまらず、
毎日が地獄のようでした。「死んで楽になりたい!」と思ったことが、何度もありました。
そのときの経験から、「自己否定」の心情を察すると、だいたい次のようになるのではな
いでしょうか。

 ・・・私には生きる価値がないし、生きる資格もありません。生きる意味も、生きる目
的も、生きる希望も、生きる楽しみもありません。私が生きていることは、只々みなさん
に迷惑をかけるだけで、たいへん申し訳なく思っています。自分でもしっかりしなければ
と思うけれど、どうしても駄目なのです。生きることが辛くて辛くてたまりません。この
まま生きているより、一思いに死んでしまった方が余程ましです! なぜなら、その方が
世の中のためだと思うし、私も楽になれるから・・・。

 このように自己否定は、「自分は価値のない人間だ!」と激しく思い込み、自分自身を
責めつづけます。経験のない人には分かりにくいのですが、この苦しみは実に大きなもの
です。それで自己否定に激しく取りつかれた人は、いつまでも終わることのない、この拷
問のような苦しみに耐えかねて、だんだんと生きる意欲を失ってしまうのです。

 ところが人によっては、この「自己否定の苦しみ」を自分に向けるのではなく、他人に
向けてぶつける場合があるように思います。
 例えば、いじめ、家庭内暴力、DV(夫の妻への暴力)、幼児や児童への虐待、突然に
キレて犯す殺傷事件・・・。これら現代社会の「心の闇」は、その根底に「自己否定」が
潜んでいるのではないかと、私は肌で感じます。
 なぜなら、「生きることは素晴らしい!」と心の底から実感し、自分の人生に幸福と満
足を感じている人・・・。そのような人は、いじめや暴力や虐待など絶対にやらないし、
そんなことは考えもしないからです。

 また、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という議論が有名になりましたが、これも
自己否定に取りつかれているから、そのような疑問が起こるのではないでしょうか。とい
うのも、自己否定に激しく取りつかれた人は、自分の生命を否定しているから、他人の生
命をも、当然のように否定してしまうと思うのです。
 自分の命でさえ、死んだ方がましだと思っているのだから、「いわんや他人をや」なの
でしょう。自己否定に激しく取りつかれて自暴自棄になった人には、「自分が死にたくな
いならば、他人も殺してはいけない!」という理屈が通らないのです。

 現代人の心の闇は、ひとえに「自己否定の蔓延」が、その根底にあるのではないでしょ
うか?
 いま本当に必要なのは、「自己否定からの解放」であると、私は心の底から感じている
のです。


2章 生きる拠り所
 ところで、自己否定から解放されるために、いちばん必要なことは何でしょうか?
 それは、
 「自分は、(何かの存在に)受け入れられている。」
 「自分は、(何かの存在に)生きることが認められている。」
 「だから、自分は生きてもいいんだ!」
という、確信が持てるようになることだと私は思います。

 この「何かの存在」というのは、親や家族、恋人、友人であったり、あるいは学校や会
社などの組織であったりします。そして、親から見放されたり、いじめに会って不登校に
なったり、失恋したり、リストラで会社から追い出されたりすれば、この「何かの存在」
という部分が喪失し、自己否定に取りつかれるのです。

 人間は、「何かの存在」に受け入れられてはじめて、自己否定から解放され、いきいき
と生きることが出来るのです。この「何かの存在」とは、自分の存在を認めてくれるもの、
自分が生きることを認めてくれるものです。つまり「生きる拠り所」です。

 この「生きる拠り所」を、他人(親や家族といえども、自分以外の人間はすべて「他人」
です)や会社にしていたのでは、とても不安でたまりません。なぜなら他人や会社は、い
つでも自分を見捨てる恐れがあるからです。さらには、もし自分が見捨てられなかったと
しても、死別や会社の倒産などで、「生きる拠り所」を失う危険がいつもあるからです。

 事実、現代人の多くが持っている「心の不安」は、この「生きる拠り所を失う恐れ」が、
その原因だと言えるのではないでしょうか?

 また、「生きる拠り所」を金や地位、名誉、権力などに求める者もいますが、しかしこ
れも結局は、「他人から認められたい!」とか、「他人に自分を認めさせたい!」という
願望の投影にすぎません。だから、金や地位、名誉、権力などを「生きる拠り所」にする
ことは、「他人」を生きる拠り所にするのと本質的に変わらないのです。

 ところで、「生きる拠り所」を他人や会社などの不安定なものでなく、「もっと絶対で
確実なものにしたい!」と考えるのは、人間として当然のことです。実は、このような悩
みは現代だけでなく、大昔から存在していました。それで人類は、「神」を考えだすに至っ
たのです。
 「神は絶対」であり、神を心から信じれば、たしかに自己否定から永遠に解放されます。
「生きる拠り所」として、これ以上に絶対で確実なものはありません。
 しかしながら、「神」は見ることも触ることもできません。だから、「神を信じなさい!」
と急に言われても、なかなか出来ないのは当然でしょう。

 他人や会社などより、絶対で確実な「生きる拠り所」。
 しかも、神のように見たり触ったり出来ないものでなく、見ることも触ることもできる
「生きる拠り所」。

 それこそが、現代社会では強く求められているのではないでしょうか。


3章 大生命
 そのような「生きる拠り所」として、私は「大生命」というものを考えています。
 大生命とは、一言でいうと「地球の生態系」のことです。
 突然にこう言えば皆さんは、すこし戸惑われるかも知れません。そして、「なぜ地球の
生態系が生きる拠り所になるのか?」と、疑わしく思うかもしれません。
 しかし最近は、人類の幸福にとって、地球の自然や生態系がとても大切であることが、
広く一般に知られるようになりました。だから私のこの考えは、そんなに荒唐無稽なもの
ではないと思います。少なくとも「神」に比べれば、皆さんにも納得しやすいのではない
でしょうか。

 つぎに、「大生命」の大まかな説明と、大生命が「生きる拠り所」となる理由を、お話
したいと思います。

 大生命は、細菌、プランクトン、昆虫、植物、動物、人間を含む、「地球のすべての生
命」から出来ています。
 これら地球のすべての生命は、色々な関係で一つにつながり、「一つの生命維持システ
ム」を作っています。その生命維持システムが「大生命」なのです。

 たとえば植物は、二酸化炭素から酸素をつくります。逆に動物は、酸素を吸って二酸化
炭素を出します。そして動物の出した二酸化炭素は、ふたたび植物に使われます。このよ
うに植物と動物はつながっているのです。

 また、地球のすべての生命は、「食物連鎖」でも一つにつながっています。食物連鎖で
は、植物が草食動物に食べられ、草食動物が肉食動物に食べられます。そして動物の糞や
死骸は、やがて虫や細菌によって分解され、植物の肥料になります。このように食物連鎖
は、すべての生命を一つに結びつけているのです。

 さらに詳しく調べれば、他にも色々とたくさんの、生命どうしの結びつきがあることに
気づくでしょう。

 このように、地球のすべての生命が一つにつながり、「一つの生命維持システム」を作っ
ているから、個々の生命は生きることが出来るのです。この生命維持システム、つまり大
生命が存在しなければ、個々の生命は絶対に生きられません。そしてこれは、人間につい
ても言えることです。もちろん、あなたについてもです!

 あなたは、決して一人だけで生きているのではありません!
 あなたは、他のたくさんの生命に支えられているから、生きることが出来るのです。
 つまり、大生命という生命維持システムに組み込まれ、大生命に受け入れられているか
ら、あなたは生きられるのです。大生命によって生きることが許されているから、あなた
は生きることが出来るのです。

 ところで、「生きる拠り所」とは、あなたを受け入れてくれる「何かの存在」。そして、
あなたが生きることを認めてくれる「何かの存在」でした。大生命は、まさにその役目を
はたしています。

 これが、大生命が「生きる拠り所」となる理由なのです。

 たとえば、今あなたは「呼吸」をしていますが、あなたが「窒息」をしないのは、大生
命が酸素を作っているからです。
 たしかに酸素をつくるのは植物ですが、植物といえども、単独では生きることが出来ま
せん。微生物や虫や動物をふくめた、「一つの生命維持システム」に組み込まれているか
ら、植物も生きられるのです。だから酸素を作っているのは大生命なのです。
 大生命の存在しない場所、それはたとえば「宇宙空間」ですが、そのような場所は酸素
がなく真空であり、あなたはすぐに死んでしまいます。たとえ10分たりとも生きること
が出来ません。
 今ここで、あなたが呼吸できるというその事実が、まさしく大生命に受け入れられ、生
きることが認められている証拠なのです。
 今ここであなたは、すぐそこの草木が10分前につくった酸素を吸っているでしょう。
 あの山の森が、昨日つくった酸素も吸っているでしょう。
 そして、南米アマゾンのジャングルが1年前につくった酸素も、今ここで吸っているで
しょう。
 今ここで、あなたが呼吸できると言うその事実が、そこの草木にも、山の森にも、南米
のジャングルにも、あなたの命が支えられていると言うことなのです。
 また、あなたは毎日食事をしていますが、この毎日の食事も、大生命によって与えられ
ています。米や麦や野菜などの植物、あるいは豚や牛や魚などの動物、これらすべてが、
大生命によって与えられているのです。

 大生命が存在しなければ、あなたは呼吸をすることも、食事をすることも出来ません。
 これはもう、誰にも反論のできない事実であり、真実です!
 あなたは、大生命に完全に受け入れられています。
 あなたは、大生命に生きることが認められています。
 だから、あなたは生きていて良いのです!

 あなたが生きることを認めているのは、あなた自身でも、他人でも会社でもなく、「大
生命」なのです。大生命の存在を実感すれば、多少のいじめに会ったり、リストラや倒産
に会っても、「生きる拠り所」を失うことがありません。
 そして大生命は、「地球の生態系」として見ることも触ることもできます。だから大生
命を実感するのに、「何かを信仰する必要」は全くありません。
 深呼吸を1回するだけで、大生命は実感できます。ご飯を一口食べるだけで、大生命は
実感できるのです。
 動物や植物に触れることは、大生命に触れることです。そして私たち自身が、すでに大
生命の一部なのです。

 人間は、「自己否定」にさえ陥らなければ、結構平気で生きられるものです。とくに、
日本のような先進国ではそうです。なぜなら発展途上国の難民のような、餓死や凍死の危
機など、日本にはまったく存在しないからです。
 衣食住に困らない豊かな社会になったのに、人間が依然として不幸になっているのは、
「自己否定」に取りつかれるからです。そして自己否定に取りつかれるのは、「生きる拠
り所」を他人や会社などの不安定なものにしているからです。
 「生きる拠り所」を、もっとしっかりした生命の基盤である「大生命」にすれば、この
いまいましい自己否定から解放されるのです。


4章 自己愛を持つためには
 「自己愛」とは、自分を愛し、生きることを愛することです。
 「生きることは素晴らしい!」
 「この世に生まれて良かった!」
と、心の底から実感することです。
 生きる目的や生きる意味を見いだし、生きがいを感じて、いきいきと生きることです。
自分が存在することに、喜びと感謝を感じることです。

 自己否定に苦しむ人たちが、それから解放されるだけでなく、積極的に「自己肯定」が
できるようになること。つまり「自己愛を持つこと」は、私の大きな願いであり、この本
の大きな目的です。
 だから、これから第1部の全体を使ってじっくりと、「自己愛をもつための方法」につ
いて考えて行きたいと思うのです。
 (ところで「自己愛」と呼ばれるものの中には、エゴイズムや自信過剰、ナルシシズム
などと言ったものもあります。しかしこれらは「間違った自己愛」と言えるもので、私が
ここでいう「自己愛」とは異なるものです。それについては、第1部の最後でもういちど
注意をうながしたいと思います。)

 自己愛を持つために必要なことを、ここで今いちど考えてみましょう。そうすると、つ
ぎの三つが挙げられるかと思います。
 一つ目は、自分が「何かの存在」に受け入れられていること。
 二つ目は、自分が「何かの存在」から愛されていること。
 三つ目は、自分が「何かの存在」の役に立っていることです。

 まず一つ目の、「自分は受け入れられている!」という実感ができてはじめて、人間は、
心の底から安心することができます。なぜなら人間は、「何かの存在」に受け入れてもら
わないと、孤独で不安でたまらないからです。
 たとえば、「自分は誰からも受け入れてもらえない!」などと、ほんの少しでも感じて
しまったら、もう大変です。「自分は存在する価値がない!」と思い込み、すぐに自己否
定が起こってしまいます。
 そして、「何とかして自分を受け入れてもらいたい!」という思いの一心から、自分の
本当の気持ちを抑えつけてまで、周りの人間に自分を合わせてしまいます。これは、「本
当の自分」を否定している状態、つまり「自己否定」の状態です。
 だから自己愛を持つためには、まず第一に、「自分は受け入れられている!」と実感で
きることが、どうしても必要なのです。

 つぎに二つ目の、「自分は愛されている!」という実感ができてはじめて、人間は自分
を好きになることができます。なぜなら人間は誰からも愛されないと、「愛されない自分」
に失望し、自分自身を憎んでしまうからです。つまり、自己否定に取りつかれるのです。
そして、なんとかして周りの人間から愛されようと必死になり、やはり「本当の自分」を
押し殺してしまいます。そうして、ますます自己否定を激しくして行くのです。
 あるいは「誰からも愛されない人間」は、人々の尊敬を力ずくで集めようとすることも
あります。その場合は、金や地位、権力、名誉などを、必死になって求めます。しかしな
がら、それが周囲との摩擦を大きくし、怒りや妬み、憎悪などを買うことになります。そ
して周りの人々から憎まれれば、いくら自分では強がって見せても、やはり人間は自己否
定に取りつかれてしまいます。
 だから人間は、つねに「何かの存在」から愛されていないと、自己愛が持てないのです。

 さらに三つ目の、「自分は何かの役に立っている!」という実感ができてはじめて、人
間は自分の存在価値を見いだし、自信を持つことができます。なぜなら人間は、「社会的
な動物」だからです。人間は、つねに自分が何かの役に立っていないと、不安でたまらな
いのです。
 たとえば、周りの人間から「役たたず!」と言われ、「自分は何の役にも立たない」な
どと思い悩んでしまうと、どうしても自己否定に取りつかれてしまいます。
 自分の存在に意味や価値を見いだし、自分に自信を持つためには、「自分は何かの役に
立っている」という実感が、どうしても必要なのです。

 以上のように、人間が自己愛を持つためには、「何かの存在」に自分が受け入れられ、
愛され、自分がその役に立っていることが必要です。
 この「何かの存在」とは、自分の生きる支えとなる「何か」です。これを「生きる拠り
所」と名づけました。
 「生きる拠り所」は、人によってさまざまです。ある人にとっては家族や恋人であった
り、またある人にとっては会社であったりします。そしてまた、生きる拠り所が「神」だ
という人もいるわけです。
 前にも触れましたが、「生きる拠り所」が家族や恋人などの「他人」であったり、会社
などの「組織」であったりすると、とても不安でたまりません。なぜなら他人や組織は、
いつでも自分を見捨てる恐れがあるからです。さらには、もし自分が見捨てられなかった
場合でも、死別や会社の倒産などで、「生きる拠り所」を失う危険がつねにあるからです。
 しかしだからと言って、永遠で絶対の「神」を生きる拠り所にするのは、多くの現代人
にとって難しいでしょう。

 ところで以前の日本では、会社の終身雇用が保証されており、「会社」が「生きる拠り
所」の役目を十分にはたしていました。そこそこの大学を出て会社に入り、あとは可もな
く不可もなく、とくにトラブルを起こさなければ、定年までの給料と、その後の年金が保
証されていたからです。「会社」は、自分と家族の一生を保証してくれる、信頼のおける
ものだったのです。
 しかしバブルの崩壊後、大企業のリストラによって、終身雇用制が崩れてしまいました。
また、経済の低迷や、競争の激化によって、倒産する会社(とくに中小企業)も後を絶ち
ません。
 リストラや会社の倒産で仕事を失った人たちが自殺をするのは、食べるためのお金が無
くなったからと言うよりは、「会社」という「生きる拠り所」を失ったからではないかと
私は思うのです。なぜなら、現代の日本には餓死の危機などまったく存在しないからです。
 また、「過労死」や「過労自殺」をするまで働き続ける人々がいるのも、会社の仕事を
単なる生活の手段とは考えず、「自分の命より大切なもの」とか、「それを失ったら生き
ていられないもの」と、激しく思い込んでいるからではないでしょうか?
 現代社会における「自己否定の蔓延」は、やはり、「生きる拠り所の喪失」がその根本
原因であるように感じます。
 これからの時代は、もっと確実で安定した「生きる拠り所」が、どうしても必要になっ
て来ました。そうしないと、「自己愛を持つこと」が、とても難しい時代になりました。

 そこで私は、これからの時代に適う新たな「生きる拠り所」として、「大生命」という
ものを考えているのです。
 「大生命」を生きる拠り所にすれば、「自分が切り捨てられること」は絶対にありませ
ん。なぜなら大生命は、地球のすべての生命を含むからです。あなたも私も、すでに大生
命の一部なのです。
 また大生命は、この地球に「生命」というものが誕生してから、すでに40億年も存在
しつづけています。そして人類が愚かなことをしなければ、少なくとも、あと数億年は存
在しつづけるでしょう。
 このように大生命は、絶対に自分を切り捨てることがなく、また、他人や会社などに比
べれば、ほぼ永遠に存在します。だから大生命は、他人や会社などより、確実で安定した
「生きる拠り所」になり得るわけです。
 しかも大生命は、神のように見たり触ったり出来ないものではなく、「地球の生態系」
として見ることも触わることもできます。だから大生命の存在は、誰にでも理解すること
ができ、納得することができるのです。

 ところで「生きる拠り所」とは、
 自分を受け入れてくれる「何かの存在」。
 自分を愛してくれる「何かの存在」。
 自分を役立たせてくれる「何かの存在」でした。
 大生命は、この「何かの存在」に相当するものです。だから大生命は、これらの条件を
満たしていなければなりません。

 そこで次に、あなたや私を含めた地球のすべての生命が、
 大生命に受け入れられていること。
 大生命に愛されていること。
 大生命の役に立っていること。
について、もうすこし詳しく考えて行きたいと思います。


 つづく



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