私がなりたいもの 2
                            2023年12月10日 寺岡克哉


 前回で私は、なれるものならば、

 摂食(せっしょく)、排泄(はいせつ)、睡眠などの「肉体の縛(しば)
り」から解放されて、

 自我意識だけの存在、いわゆる「精神生命体」になりたいと書きました。



 しかしそれは、

 現在のところ、「単なる空想」に過ぎず、実際には実現不可能なこと
です。



 それで今回は、

 空想ではなく、実現可能な「私がなりたいもの」について、書きたい
と思いました。


           * * * * *


 しかし、その前にまず、

 これまでの過去における、「私がなりたかったもの」について、書い
てみたいと思います。



 と、いうのは、

 それによって、「私がなりたいもの」がどのように変化してきたのか
を知ることができ、

 さらにそれによって、けっきょく私は何を目指し、何になりたかった
のかが、明らかになると思ったからです。


           * * * * *


 さて、まず私は、

 20歳代~30歳代のころ、「科学者」になりたいと、つよく思って
いました。



 その理由は、

 「科学の発達こそが、人類を幸福に導くのだ!」

 「だから科学の発達こそが、人類にとって、いちばん価値があること
なのだ!」

 と、心の底からつよく信じて、疑わなかったからです。



 ところが、

 科学者になるには、私の力量と努力が不足していました。



 そしてまた、

 「科学文明は、あまりにも機械的で、人間にとって大切な ”人の心”
というものが抜け落ちている」

 「だから科学の発達は、ほんとうに人類を幸福にするのだろうか?」

 という疑問が生じてしまい、けっきょく科学者になることを断念して
しまったのです。


           * * * * *


 それで、つぎに私は、

 なれるものならば「思想家」になって、科学文明には欠けている、
人間にとっての「真の幸福」を、探求をしたいと思うようになりました。



 ちなみに、拙書「生命の肯定」を出版したり、

 本サイトで様々なエッセイを書いているのも、そのためです。



 その結果、

 「幸福の本質は愛すること」であり、「愛すれば幸福」という、

 私にとっては「最高の真理」と思えるものを、自分なりに発見する
ことができたのです(エッセイ1036、1037)。


           * * * * *


 しかしながら、

 たしかに「愛すれば幸福」という真理を発見できて、私は一応の満足
が得られました。



 ところが今度は、

 「愛すれば幸福」というのを頭では理解できても、心がついて行かな
いという壁に突き当たったのです。



 つまり、

 自分の心が「愛」に満たされれば、確かに幸福になることができます。


 が、しかし、それは一時的なもので、

 たとえば戦争や、殺人や、子供の虐待や、いじめなどの報道が目に
入ると、

 すぐに怒りや憎しみに心が占領されて、幸福な気持ちが吹き飛んでし
まうのです。



 それで、

 これから私が死ぬまで、おそらく、あと10年~20年ぐらいの時間
が残されていると思いますが、

 その死ぬまでの間に「私がなれる可能性のあるもの」として、

 ちょっとしたことで怒りや憎しみの感情に心が支配されないような、

 「強固で安定した ”愛の心” を持つ人間」。



 それは確かに、なかなか簡単には、なれないかもしれませんが、

 しかし人生の最終目標として、そうゆうものに私はなりたいと思って
います。



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