自我意識のパラドックス
2023年10月1日 寺岡克哉
今回は、
ずいぶん昔(44年ぐらい前の高校生のころ)に私が思いついた、
自我意識に関するパラドックス(矛盾)について、紹介したいと
思います。
* * * * *
まず最初に断っておきますが、
このパラドックスは、「空想による思考実験」の上での、話になり
ます。
さて、たとえば・・・
人間の脳を、機械(電子回路など)に置き換えることが出来る
ような、
そんな「人工脳」が発明されたとします。
そして、その前提の下、
私の脳のごく一部分、たとえば私の脳の1%ぐらいを、この
「人工脳」に置き換えたとします。
しかし、その置き換えた分、
つまり、私の生身(なまみ)の脳の1%は、切り取られるなどして
「失う」ものとします。
ところが、そのような状態でも、
99%残った生身(なまみ)の脳と、置き換えた1%の人工脳との
リンクが完全にされており、
私の記憶や感情などは、100%生身の脳だったときと、何も変わ
らないとします。
このような状態なら、
生身の脳の1%を、人工脳に置き換えても、「私の自我意識」は
存在していると言えるでしょう。
そして、その後、
人工脳に置き換える割合を2%に増やし、生身の脳が98%の
状態になっても、
生身の脳と、人工脳とのリンクが完全にされており、記憶や感情
が全く変わらなければ、
やはり、私の自我意識は存在しているでしょう。
さらに、その後、
人工脳に置き換える割合を3%、4%、5%・・・
と、徐々に増やして行き、生身の脳の50%が、人工脳に置き
換わったとしても、
つまり、生身の脳の50%が失われたとしても、
生身の脳と、人工脳とのリンクが完全にされており、記憶や感情
が全く変わらなければ、
やはり、私の自我意識は存在していると思います。
そして、ついに、
人工脳に置き換える割合を98%、99%、100%と、徐々に
増やして行ったら・・・
しかしそれでも、自分の記憶や感情が、まったく変わらないと
すれば・・・
もしも、そんな状態が実現したら、
たとえ生身の脳の100%が、人工脳に置き換わったとしても、
つまり、私の「生身の脳のすべてが失われた」としても、
やはり、「私の自我意識は存在する!」と、私は思うわけです。
* * * * *
しかし一方、
私の生身の脳を、徐々に切り取るのではなく、まったく切り取ら
ずに、
最初から私の記憶や感情を、人工脳に100%コピーした場合。
その場合は、
私の生身の脳には、「私の自我意識」が存在し、
人工脳には、(私と記憶や感情がよく似た)「人工脳の自我意識」
は存在するかも知れませんが、「私の自我意識」は存在しないで
しょう。
* * * * *
つまり、
私の生身の脳を、徐々に切り取って行った場合は、人工脳の
中に「私の自我意識」が存在するのに、
私の脳を切り取らないでコピーした場合は、人工脳の中に
「私の自我意識」は存在しないのです。
すこし見方を変えれば、
私の生身の脳を徐々に切り取って、人工脳に置き換えて行った
場合は、
生身の脳をすべて失っても、私の自我意識消滅、つまり「死」と
いう現象が、起こらないとも言えるでしょう。
ところが、
私の脳を切り取らないで、人工脳に記憶や感情をコピーした
場合は、
生身の脳を失えば、とうぜん私は死ぬことになります。
以上が、
私が昔に思いついた、「自我意識のパラドックス」なのです。
* * * * *
今いちど考えてみても、すごく不思議でなりませんが、
この話を思い出した機会に、もうすこし考察を進めてみました。
たとえば、
私の生身の脳を、徐々に切り取るのではなく、まったく切り取ら
ずに、
最初から私の記憶や感情を、人工脳に100%コピーする場合
を考えてみます。
この場合、私の記憶や感情を人工脳に「コピーするとき」は、
生身の脳と、人工脳とが、完全にリンクしており、
生身の脳と、人工脳とで、いわゆる「感覚共有」をしている状態
になります。
この「感覚共有」の状態において、
私は、生身の脳と、人工脳の、2つの脳を持っているにもかかわ
らず、
「私の自我意識は1つ」として感じるでしょう。
たとえば「感覚共有」の状態で、
生身の脳と、人工脳との間で、「対話」を試(こころ)みたとしても、
自分一人だけで、自問自答しているのと、なんら感覚は変わらな
いと思います。
しかしリンクを切り離して、「感覚共有」の状態を解消すれば、
その瞬間から、私の生身の脳には、私の自我意識が存在し、
人工脳には、人工脳の自我意識が存在して、もはや私の自我
意識は存在しなくなります。
ところが!
「感覚共有」の状態から、リンクを切り離すのではなく、
「感覚共有」の状態のまま、私の体を木っ端微塵(こっぱみじん)
に爆破して、一瞬で生身の脳を消滅させた場合・・・
その場合は、
生身の脳が消滅しても、私の自我意識は、人工脳の中に存在し
続けるように、私には思えるのです。
つまり、
体の爆破により、手や足や目や耳などの「肉体の感覚」が無くなっ
たように感じるだけで、
「自我意識そのもの」は、消滅しないで存続すると思うわけです。
(蛇足ですが、人工の手や足や目や耳を、人工脳に接続すれば、
それらの感覚も回復可能でしょう。)
すこし言い方を変えれば、上のような場合、
私の肉体が死んでも、私は人工脳の中で生き続けるのではない
かと、
いま現在の私は、そのように考えている次第です。
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