私の神 11
                              2023年7月9日 寺岡克哉


 私は先日、何気(なにげ)なく考え事をしていたら、

 「キリスト教の神」と、「私の神」との違う部分について、ふと気が
ついてしまいました。


 なので今回は、そのことについて書いてみたいと思います。


            * * * * *


 まず、

 「キリスト教の神」というのが、一体どんなものかについてですが、

 それは新約聖書の、以下のような記述の中に見られます。


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 新約聖書(新共同訳) マタイによる福音書 5章43、44、45、
48節


 あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じ
られている。

 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のため
に祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。

 父は悪人にも善人にも太陽を昇(のぼ)らせ、正しい者にも
正しくない者にも雨を降(ふ)らせてくださるからである。


 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなた
がたも完全な者となりなさい。

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 上の太線で書かれている部分のように、「キリスト教の神」と
いうのは、

 悪人にも善人にも、太陽の恵(めぐ)みを与えてくださる神で
あり、

 正しい者にも正しくない者にも、恵みの雨を降らせてくださる
神であることが分かります。


            * * * * *


 さて一方、「私の神」も、

 悪人にも善人にも、太陽の恵みを与えてくださり、

 正しい者にも正しくない者にも、恵みの雨を降らせてくださる所
は、キリスト教の神とまったく同じです。



 が、しかし、その一方で「私の神」は、

 悪人にも善人にも、日照りによる水不足や熱中症を引き起こし、

 正しい者にも正しくない者にも、大雨による土砂崩れや洪水の
被害を与えます。

 ここの所が、

 「キリスト教の神」と「私の神」との違う部分であると、先日にふと
気がついた次第です。



 つまり、

 「私の神」とは、「この世を、この様にしているもの(ただし、生き
ている人間を除く)」と、定義しましたので、

 この世に、水不足や熱中症、土砂崩れ、洪水などが存在する
以上、それを否定することはできないのです。

 「私の神」は、宗教の神のような、人間が恣意的(しいてき)に
作り上げた神ではありません。

 だから、人間にとって都合の良い所だけを取り入れて、都合の
悪い所を無視する訳にはいかないのです。


           * * * * *


 ところで「キリスト教の神」は、

 善人にも悪人にも、正しい者にも正しくない者にも、

 「すべての人に対して分け隔(へだ)てなく、恵みを与える神」で
あることが分かります。



 つまり「キリスト教の神」は、

 「すべての人に対して分け隔てなく、愛を与える神」であると言え
るでしょう。



 そして、このことから、人間も神を見習(みなら)って、

 「どんな人に対しても分け隔てなく愛しなさい」という「隣人愛」を、

 キリスト教では説いています。


            * * * * *


 そして一方、「私の神」は、

 「すべての人に対して分け隔てなく、恵みを与える神」である部分
もありますが、

 「すべての人に対して分け隔てなく、苦しみと不幸を与える神」と
いう部分も、確かにあります。



 が、しかしながら、

 「私の神」は、隣人愛を否定するものではありません。


 と、いうのは、

 人間という生物が、愛すれば幸福になり、憎めば不幸になるよ
うに、「私の神」によって作られているからです。(エッセイ1036
参照)


 つまり、

 地球に最初の生命が誕生してから、その後の生命進化によっ
て、人間という生物がそのように作られているからです。



 なので、「私の神」を認め、受け入れた場合でも、

 「どんな人に対しても、憎むことを止(や)め、分け隔てなく愛する
ようにすれば、不幸を退(しりぞ)けて、幸福になることができる」

 という結論が得られ、キリスト教の教えと、そんなに違いがありま
せん。


 このことにより、

 「私の神」は、隣人愛を否定するものではないことが分かるのです。



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