「死の存在」は救いに成りえる
                             2023年5月28日 寺岡克哉


 今回は、

 「死」は、救いに成りえないけれど、しかし、

 「死の存在」は、救いに成りえることについて、

 述べてみたいと思います。


         * * * * *


 まず最初に、「死」が救いに成りえない理由についてですが、

 それは、死んでしまったら、時間を1秒も感じることが出来ない
からです。



 たとえば・・・ 宇宙の誕生とともに、時間も発生したとすると、

 私が生まれる前には、138億年もの長い時間が存在したこと
になります。


 が、しかし、

 私は生まれる前において、そのような長い時間を、1秒にも感じ
ることが出来ませんでした。


 そして一方、

 生まれる前と、死んだ後とでは、「私が存在しない状態」という
ことで、まったく同じ状態だと言えます。


 だから、

 私は生まれる前に、たった1秒の時間も感じられなかったのと
同じように、

 私が死んだ後に、たとえ何100億年の時間が経とうとも、私は
1秒も感じることが出来ないでしょう。

 (これについての詳しい考察は、「エッセイ2」を見てください。)



 このように、

 死んでしまったら、時間を1秒も感じることが出来ないので、

 当然ですが、死んでしまったら、救いを感じることも不可能です。

 ゆえに、「死」は救いになりえないのです。



 ちなみに私は、

 全身麻酔の経験(エッセイ954、955、1080参照)から、

 「死んでしまったら、時間を1秒も感じられない」ということに、

 ますます確信を持っている次第です。


          * * * * *


 そして次に、「死の存在」が救いに成りえる理由ですが、

 それは、死にゆく本人や、生きて残された第三者が、

 「死んだら苦しみを感じることが不可能になる」ということを、
知るからです。



 たしかに、

 死んでしまったら、死んだ本人には、「苦しみを感じることが不可能
だ」ということを、知ることも感じることもできません。

 しかしながら、

 (まだ生きていて)死にゆく人にとっては、「死んだら苦しみを感じる
ことが不可能になる」と知ることが、救いになりえるのです。

 つまり、

 まだ「生きている人間」だからこそ、救いに成りえるわけです。



 以下に、その具体的な例を紹介したいと思います。


          * * * * *


 まず、死にゆく本人が、「死の存在」によって救われた例ですが、

 それは、私の母についてです。



 ・・・今から7年前に、私の母が癌(がん)で亡くなったのですが、

 母が亡くなる少し前、いよいよ癌の末期状態になったとき、まだ
使っていない抗癌剤が一種類残っており、それを使えば、あと
数ヵ月ぐらいは長く生きられたはずでした。


 が、しかし、

 「もう、抗癌剤を使うのは嫌(いや)だ!」という母の意向を尊重し
て、抗癌剤治療を打ち切ったのでした。


 つまり私の母は、

 抗癌剤治療によって苦しみが続くことよりも、死期が早まることを
望んだのです。



 私と母が主治医に相談して、抗癌剤治療の中止が決定された
とき、

 私の母には、悲愴(ひそう)な感じが見られず、どちからと言えば、
すこしホッとして安心していたように見受けられました。


 そのとき私は、

 「死の存在」が、死にゆく本人にとって「救いになりえる」ということ
を、目(ま)の当たりにしたのでした。


            * * * * *


 つぎに、「死の存在」によって、生き残された第三者が救われる
例ですが、

 それは、子供への虐待による死とか、惨殺事件などの理不尽な
死を知ってしまったときの、精神的な救いです。



 たとえば私は、

 子供への虐待による死とか、いじめやパワハラによる自殺とか、
惨殺事件などの報道を見てしまうと、

 怒りや、悲しみ、悔(くや)しさなどの感情が湧き起こってきて、
自分の心がとても苦しくなってしまいます。


 しかも、その「やりきれない苦しみ」は、

 たとえ加害者が有罪になって、刑罰を受けたとしても、治まる
ものではありません。



 しかし、そんなとき、

 「すでに亡くなった被害者本人には、もう苦しみが存在していな
いのだ!」と、知ることによって、

 その「やりきれない苦しみ」を、軽減させることが出来るのです。



 つまり、亡くなった被害者本人は、

 死後もずっと、苦しみを感じ続けている訳では決してありません。

 そのことを知れば、私の心がすこし軽くなり、「救われた」という
気持ちになれるのです。



 そしてこれは、私以外の第三者にとっても、同じことが言えると
思うのです。

 ゆえに、

 「死の存在」は、生き残された第三者にとって、「救いに成りえる」
と私は考えている訳です。


            * * * * *


 以上、

 ここまで述べて来ましたが、いつものように注意を促(うなが)し
たいと思います。


 それは、

 「死の存在」が救いになりえるからと言っても、「死」は救いに
成りえません。


 だから、

 末期の癌(がん)などで、近く死ぬことが決まっているような人
ではない人。

 とくに、人生の可能性がたくさん残っている若い人は、けっし
て、簡単に死ぬことを選ばないでください。

 生きているからこそ、「救い」があるのですから・・・ 



      目次へ        トップページへ