「救い」について 7
2023年4月30日 寺岡克哉
「エッセイ1097」から、「救い」について、私の考えを述べていま
すが、
今回は、これまで述べてきたこと以外の、「救いに関すること」に
ついて、書いてみたいと思います。
* * * * *
●愛すれば幸福
「エッセイ1097」で、「救い」とは「苦しみを無くすること」である
と(定義)しました。
そうすると、
「不幸」であるのは苦しみだから、不幸から脱却して「幸福」
になることは、「救い」であると言えます。
ゆえに、
「愛すれば幸福」というのは、救いを得る一つの方法となります。
ところで、
「愛すれば幸福」とは、どう言うことかについては、「エッセイ1036」
で述べており、その要点は以下のようになります。
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エッセイ1036の要点
愛すれば幸福!
それは、今まで私の人生で発見した、最大で最高の真理です。
愛すれば幸福!
この真理にたいして、「外的な状況」は、いっさい関係がありま
せん。
つまり、
お金が無くて貧乏であっても、
病気を患(わずら)っていても、身体障害があって五体満足で
なくても、
家族や友人がいなくて、一人ぼっちであっても、
さらには、自分の死に直面しているときでさえ、
「愛すれば幸福!」という真理は、まったく揺らぐことがないの
です。
その逆に、
何億円もの金を持っていても、健康で五体満足であっても、
家族や友人たちに囲まれて、賑(にぎ)やかに暮らしていても、
身の安全が保障されて、まったく死の危険がなくても、
怒りや、憎しみ、妬みなどの感情に、つよく駆られていれば、
それは「不幸」以外の、何ものでもありません。
このように、「愛すれば幸福!」という真理は、
原理的に、どんな人でも幸福になれる真理であり、どんな人
でも救われる真理なのです。
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以上のように、
「愛すれば幸福」というのは、不幸による苦しみから救われる
ための、強力な手段になります。
しかしながら、
「愛する」というのは、ものすごく難しいことであり、そう簡単に
出来ることでないのが、この方法の難点であり課題です。
そして、もちろん、
「愛すること」は、私自身の人生においても、最終的な最大の
目標となっています。
* * * * *
●死の存在
これは、誤解される恐れがあるので、十分な注意が必要ですが、
寿命の存在というか、「死の存在」というのが、救いになり得ると
いうことに、
私は最近、ますます確信を持つようになっています。
というのは、
私も今年で60歳になり、加齢(かれい)のために体力が衰(おと
ろ)えて来ると、
毎日の食事や、買い物や、風呂に入ることや、洗濯や掃除などが、
だんだん面倒(めんどう)になってきたからです。
つまり率直に言えば、だんだん「生きるのが面倒」になってきた
わけです。
そして、
これまで十分に生きて来たし、「あと10年も生きれば、もうたくさん
だ!」という気持ちに、なってきたからです。
ところで・・・
今から7年前に、私の母が癌(がん)で亡くなったのですが、
亡くなる少し前、いよいよ癌が末期症状になり、ひどく痩(や)せ
細ってきたとき、
まだ試(ため)していない抗癌剤が一種類あり、それを使えば、
あと数ヵ月ほど長く生きられたはずだったのですが、
「もう、抗癌剤を使うのは嫌(いや)だ!」という母の意向を尊重し
て、抗癌剤治療を打ち切ったのでした。
つまり私の母は、
抗癌剤治療によって苦しみが続くことよりも、死期が早まることを
望んだのです。
そのとき私は、
寿命の存在というか、死の存在することが、救いになり得るという
ことを、初めて目(ま)の当たりにしたのでした。
その後、私は年齢を重ねるごとに、
「死の存在」が救いになり得ることについて、ますます確信を持つ
ようになって行ったのです。
しかし、ここで注意したいことがあります!
たとえば、まだ年齢が若い人は、病気になったり、生活環境が
悪かったりしても、それを改善できる可能性が十分にあります。
また、末期の癌(がん)などとは違って、近い将来に死ぬことが
決定している訳でもありません。
だから若い人は、今は生きるのが辛くても、将来的に幸福に
なれる可能性が十分にあるのです。
なので、そのような若い人たちには、
死が救いになり得るからと言って、安易に死を選ぶようなことは
せず、
できる限り、力いっぱい生きてほしいと、私は心から願ってやみ
ません。
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