「救い」について 6
                             2023年4月23日 寺岡克哉


 3回前の「エッセイ1099」から、

 (1)大生命、(2)宇宙の原理、(3)大いなるもの、(4)私の神に
たいし、

●それぞれの「定義」

●それらが「自分の存在を肯定してくれるもの」である理由

 について簡潔にまとめ、どの部分が、どのように進化してきたの
かを、比較検討しています。


 それで前回では、(4)私の神の、定義までについて書きました。

 今回は、その続きです。


            * * * * *


●「私の神」が「自分の存在を肯定してくれるもの」である理由

 これも、(2)の宇宙の原理や、(3)の大いなるものと、ほとんど
同じです。


 つまり、

 「この世を、この様にしているもの」である「私の神」が存在しな
ければ、

 今ここで自分は、この世に生きて存在できる訳がないというの
が、その理由です。



 自分は、

 「私の神」によって存在させられ、生かされています。


 ゆえに、

 「私の神」が「自分の存在を肯定してくれるもの」であると、

 考えざるを得ないわけです。



 今ここで、自分が生きて存在していること。

 その事実こそ、

 「私の神」が「自分の存在を肯定してくれるもの」であることを、

 明確に証明しているのです。


            * * * * *


●大いなるものから進化した部分

 「大いなるもの」という呼び方には、それが「神の概念に近づいた」
というニュアンスまでに、とどまっていました。

 が、しかし、

 「私の神」と呼ぶことで、それが神であることを、完全に認めた形
になりました。



 ところで私は、

 「神の存在」を認めることに、ずっと躊躇(ちゅうちょ)していました。

 と、いうのは、

 たとえば「宗教の神」を信仰する人々が、科学的な事実を否定した
り、はげしい独善に陥(おちい)って、宗派対立や宗教戦争などを引き
起こしたからです。



 しかし「私の神」は、その定義から言って、科学的な事実を否定する
ことはありません。

 なぜなら「私の神」とは、「この世を、この様にしているもの」なので、

 この世に「科学」というものが存在する以上、「私の神」は、その存在
を否定しないからです。



 また、

 「神」ではなく、「私の神」とすることで、人それぞれが「自分の神」
を持つことを認めました。

 つまり、

 強制的に統一された神観を押し付けるのではなく、「個々人の神観
を認めること」によって、宗派対立や宗教戦争を防ぐことが、できるよう
になりました。



 上のように「私の神」は、

 科学的な事実を否定しませんし、宗派対立や宗教戦争を起こす
恐れもありません。

 なので、このような神ならば、その存在を認めることが、私にも可能
になった訳です。


            * * * * *


 以上、「エッセイ1099」からここまで、


(1)大生命、(2)宇宙の原理、(3)大いなるもの、(4)私の神に
ついて、

 どの部分が、どのように進化してきたのかを、比較検討してきま
した。



 その結果、

 「大生命」は、その概念が、地球の生態系に閉じていましたが、

 「宇宙の原理」は、その概念が、宇宙全体にまで拡張されたこと
が確認できました。


 しかしながら、

 「宇宙の原理」は、その概念が、まだ自然科学の範囲内に納まっ
ていたのです。


 それで、「大いなるもの」と呼び方を変えることにより、

 その概念が、自然科学の範囲を超えて拡張されたというニュアン
スを持たせ、神の概念にすこし近づけました。


 そしてさらには、

 「私の神」に至ることで、私は「神の存在」を認めることが、できる
ようになった訳です。



 ところで・・・ 

 「大生命」から「私の神」に至るまで、じつに20年もの長い年数
が経ってしまいました。


 しかしそれは、

 私なりに「神の存在」を認めることが出来るようになるまでの、

 どうしても必要な過程であり、必要な時間であったと、いま現在
では思っています。



      目次へ        トップページへ