私の心の変遷        2004年3月28日 寺岡克哉


 私はこれまで、「理想的な心の状態」というものを探求し、それを達成するために
私なりの努力をしてきました。
 しかしそれは、とても時間のかかる仕事です。現在においてもまだ、「理想的な心
の状態」を達成することが、なかなか出来ないでいます。
 しかしながら、この5年間のあいだにも、随分と「心境の変化」が起こってきました。
 そこで、この5年間をここで一度ふり返り、私の心がどのように変わってきたのか
を、私なりに整理しておきたいと思ったのです。

 5年前よりも以前・・・。たぶん、私の物心がついてから5年前までずっと、私は
「生命の否定」に取りつかれていたのだと思います。
 生きることの価値や、地球に生命が存在することの価値を、心の底では見いだ
せないでいました。そして「生きる」ということに、漠然とした疑問を感じていました。
 そのときの私は、表面上は明るく、人あたりの良い人間を装っていました。
 しかしながら、
 「生きるのは面倒だ!」とか、
 「なぜ、いろいろと苦労をしてまで生きなければならない!」
 「生命が存在することに、意味などあるのか?」
と、心の奥底では無意識的にそう感じていたのです。

 そのときの私は、何かに追われているような、漠然とした不安や焦燥をいつも感
じていました。そして座禅を組んで瞑想し、思考を停止させると、
 「生きても死んでも、どうでもいい感じ」とか、
 「暗黒の底なし沼に、心がどんどん沈みこんでいく感じ」
がしていました。
 つまり、腹の底から湧きおこるような、「生きる喜び」とか「生命のエネルギー」
を、そのときの私は持っていなかったのです。

 ところが5年ほど前に、「生命を肯定しなければならない!」という、強い意志が
私の心に芽生えました。
 確かにそれまでも、「いつも元気でいなければならない!」という意識はありまし
た。だから、表面上は明るく振る舞っていたのです。
 しかし本当に真剣になって、「生命の肯定」のことを考えるようになったのは、実
はこのころなのです。
 「本を書きたい!」と本気で思い、著書「生命の肯定」の構想を考え始めたのも
このころでした。
 どうしてこの時に、そのような「強い意志」が芽生えたのかは、今でもよく分かりま
せん。ただ、それまで10年以上も外に出せなくて鬱積していた自分の思いが、その
とき一気に爆発したのだと思います。
 「自分の本当の思いを、世間に向かっていちど問うまでは、死んでも死にきれな
い!」というような、思いつめた気持ちだったことを覚えています。

 それから2年ほど経ったとき、つまり今から3年ほど前に、私は「大いなる存在」、
つまり広い意味での「神の存在」を意識するようになりました。
 というのは、「生命の肯定」を真剣になって追及していくと、
 この地球に生命を生み出した「大いなるもの」。
 生きとし生きるもの、すべてを生かし続けている「大いなる作用」。
 生命全体の、幸福と永続を望む「大いなる意志」。
 生命全体を暖かく包みこみ、私たちを大切に守ってくれる「大いなる愛」。
 目には見えないけれども、いつも私たちに働きかけ、私たちの心の中に、愛、優し
さ、思いやり、利他の精神、生きる喜び、生きる勇気、生きるエネルギーなどを生じ
させる「大いなる働きかけ」。
 そのような、生命の存在を肯定する「大いなるもの」が、どうしても存在しなければ
ならないという結論に到達するし、そのような「大いなるもの」の存在を、いつも肌で
実感するようになるからです。

 ところで、「生命の肯定」を真剣に追及すると、欲望や快楽を満たすことによって
は、生命を肯定できないことが分かってきます。
 なぜなら欲望や快楽は、それらを得るために大変な労力を強いるくせに、それが
得られたとたんに幸福感が消えてしまう、「ほんの一時の空しいもの」だからです。
 さらには、欲望や快楽をあまりにも増長させすぎると、欲望や快楽それ自体が、
永遠に満たされることのない「無限の苦しみ」になってしまうからです。
 だから結局、欲望や快楽は生命を肯定するどころか、逆に「生きる苦しみ」を増大
させ、人間を「生命の否定」に陥れてしまうのです。

 「生命の肯定」の本質は、生命の存在を望み、愛し、祝福している「大いなるもの」
の存在を認めること。そして、その「大いなるもの」によって自分も愛され、祝福され
ていること。
 それを自分自身が、認めることが出来るか否かにかかっているのです。

 「大いなるもの」の存在を、素直に認めることが出来るようになってから、私の心は
どんどん元気になり、高揚していきました。
 「生命力」や「生きるエネルギー」が、毎日のように充電されていく感じです。
 そして昨年ついに、最高に高揚した愛の感覚(エッセイ62)というのを、体験するこ
とができました。
 このとき私は本当の意味で、「自分は本当に生きている!」とか、「自分は本当の
生命を得た!」という感じがしました。それは、性的な快楽をも超えるような「幸福の
絶頂感」です。

 しかしながら今年になって、精神があまりにも高揚しすぎると、返って苦しみを感じ
るようになってきました(エッセイ98)。
 「生命の否定」に取りつかれていた時のことを思えば、たいへん贅沢な話ですが、
「幸福の絶頂感も苦しみである!」と、感じるようになったのです。
 (ちなみに私は数年前から、「性的な快楽も苦しみである!」と、感じるようになっ
てきました。)

 神の愛、仏の慈悲、大生命の大愛・・・。
 そのような「大いなる愛」を心と体で実感し、心身が生命のエネルギーに満ち満ち
ており、しかしながら精神が高揚しすぎることなく、優しく穏やかで、どっしりと落ちつ
いて安定した心。
 それが一番の、「理想の心の状態」ではないかと思います。そして私は、今それを
目指しているのです。



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