「救い」について 2
                             2023年3月26日 寺岡克哉


 前回では、

●「救い」というのは、「苦しみを無くすること」であること。

●「苦しみ」には、飢え、貧困、怪我、病気など、科学技術の発達
 によって、救うことが可能になるものが存在すること。

●しかし一方、「苦しみ」には、科学技術の発達では決して救う
 ことが出来ない、「心の問題による苦しみ」というのも存在する
 こと。

 について書きました。今回は、その続きです。


           * * * * *


 さて、前回で書きましたように、

 科学技術の発達によって救うことが出来ない、「心の問題による
苦しみ」というのは、

 家族や学校や会社などの周りの人々から、「自分が認めてもらえ
ない」とか、「自分が理解してもらえない」とか、「自分を受け入れて
もらえない」と、感じてしまうような苦しみ。

 あるいは、

 「自分には存在する価値がない」とか、「自分は生きていて良い
のだろうか」とか、「自分は誰からも愛されない」と、感じてしまうよう
な苦しみです。



 これら、「心の問題による苦しみ」を、一言でまとめてしまえば、

 「自分の存在を肯定してくれる人が、誰も居ないこと」が原因の
苦しみだと言えるでしょう。


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 なので、

 たった一人でも、自分の存在を肯定してくれる人が居れば、この
ような苦しみから救われるのは確かでしょう。


 が、しかし、

 このような苦しみに、悩み苦しんでいる人は、自分の存在を肯定
してくれる人が、たった一人さえも居ないから苦しんでいるのです。


 また、

 自分の存在を肯定してくれる人が、幸いながら一人だけでも存在
し、救われていても、

 その、たった一人から自分が見放(みはな)されたとき、生きていら
れないほどの絶望に苦しんでしまうでしょう。



 これらの理由から、

 自分の存在を肯定してくれる「人」によって救われるという方法は、

 人付き合いの苦手な者にとって、すごく難しく、また、とても不安
なものになってしまう訳です。



 そのため、安心できる強固な「救い」を得るには、

 「自分の存在を肯定してくれる、人以外のもの」が、どうしても必要
になってきます。


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 ところで、

 「自分の存在を肯定してくれる、人以外のもの」を得る方法として、

 つまり、安心できる強固な「救い」を得る方法として、

 古くから既存する宗教や、あやしげな新興宗教などが、数多く
存在します。



 が、しかし宗教は、

 宗教戦争や宗派対立、そして霊感商法による金銭トラブルなど、

 昔も今も、さまざまな問題を起こしており、どうも私は、宗教を心か
ら信用することができません。


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 それで私は、

 人にも、既存の宗教や新興宗教にも頼らずに、安心できる強固
な「救い」を得るため、

 「自分の存在を肯定してくれるもの」を、自分なりに求め続けて
きたわけです。



 その結果、これまで20年ほどの間に、

 大生命(エッセイ1、19、20、21など)

 宇宙の原理(エッセイ131、132、133など)

 大いなるもの(エッセイ192、193、195など)

 私の神(エッセイ1038、1039、1040、1041、1042、
1043、1044、1046、1054)

 へと、 「自分の存在を肯定してくれるもの」が、だんだん進化
してきました。



 これら、

 大生命、宇宙の原理、大いなるもの、私の神についての詳しい
説明は、

 上に挙げた、それぞれのエッセイを読んで頂ければ良いので
すが、

 内容が重複している部分も多く、続けて読むと「うんざり」して
しまうかも知れません。



 また、

 大生命、宇宙の原理、大いなるもの、私の神にたいし、

 それぞれを比較検討するような視点では書いていないので、

 どの部分が、どのように進化してきたのか、すごく分かりにくい
と思います。



 そこで、

 大生命、宇宙の原理、大いなるもの、私の神について、その
要点を簡潔にまとめ、

 どの部分が、どのように変わったのか、分かりやすく比較して
みたいと思いました。



 つまり、ちょっと大げさに言えば、

 私の思想が、どのように変遷(へんせん)してきたのか、

 ここで少し、明らかにしておきたいと思ったわけです。


           * * * * *


 申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。



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