「救い」について 1
2023年3月19日 寺岡克哉
最近、ふと思い出したのですが、
これまで私が、エッセイを書き続けてきた理由の一つとして、
「自分なりの ”救い” を求めていた」というのが、あったのでした。
なので、それを思い出した、この機会に、
「救い」というものについて、いま現在における私なりの考えを、
ちょっと纏(まと)めておきたいと思いました。
* * * * *
さて、まず最初に、
「救い」とは何なのか、
「救われる」とは、どう言うことなのかについて、
私の考えを、すこし明確にして置(お)きたいと思います。
私は、
「救いとは何なのか」を、一言で簡単に言ってしまえば、
「苦しみを無くすること」だというのが、いちばん妥当な答え
ではないかと考えています。
それでは、
いろいろな種類の「苦しみ」にたいする、それを無くするため
の「救い」について、
これから考えて行きたいと思います。
* * * * *
まず、もっとも分かりやすい種類の「苦しみ」として、
飢えや貧困の苦しみや、怪我や病気の苦しみなどが、
挙げられるかと思います。
そして、これらの種類の苦しみは、
さまざまな技術、医療、経済などを発達させることによって、
「救う」ことが可能になります。
たとえば「飢えの苦しみ」は、
農業の技術を発達させたり、肥料や農薬を開発して、
食料の生産を増加さることにより、救うことが可能になります。
また、「貧困の苦しみ」は、
産業や経済を発展させることにより、救うことが可能になります。
そして「怪我や病気の苦しみ」は、
医療技術を発達させたり、新しい薬や医療器具を開発すること
により、
救うことが可能になるのです。
このように、これらの種類の「苦しみ」は、
根本的には「科学技術の発達」によって、救うこと可能になる
と言えるでしょう。
ちなみに、
かつて私が、科学者になることを目指したのも、
「科学が進歩すれば、人間はさらに幸福になれるはずだ!」
「科学技術が発達すれば、さらに多くの人々が、苦しみから
救われるはずだ!」
と、信じ込んでいたのが、その動機の一つであったのは確か
です。
* * * * *
ところが一方、
「科学技術の発達」では、救うことが出来ない苦しみというのも、
たしかに存在します。
それは例えば、
家族や学校や会社などの周りの人々から、「自分が認めてもらえ
ない」という苦しみ。
家族や学校や会社などの周りの人々に、「自分が理解してもらえ
ない」という苦しみ。
家族や学校や会社などの周りの人々に、「自分を受け入れてもら
えない」という苦しみ。
「自分には、存在する価値がない」と、考え込んでしまう苦しみ。
「自分は生きていて良いのだろうか」と、悩み込んでしまう苦しみ。
「自分は誰からも愛されない」と、絶望的な孤独に陥(おちい)って
しまう苦しみ。
などなどです。
そして、このような種類の「苦しみ」は、
たとえ、どんなに科学技術が発達しても、
たとえどんなに、飢えや貧困、怪我や病気の苦しみから解放され
たとしても、
それだけでは、けっして救うことが出来ない苦しみなのです。
かつて、科学者になることを目指していた頃の私は、
「たとえ、どんなに科学が進歩しても、救うことが出来ない苦しみ
が存在する!」
という事実に気がついたとき、愕然(がくぜん)としてしまいました。
そして、その後、
私は科学者になることを断念し、エッセイを書くようになりました
が、その理由が、正(まさ)にこれだったのです。
(ところで正直に言えば、科学者になれる実力が無かったのが、
それを断念した理由です。が、しかし、その後エッセイを書くように
なったのは、上で述べたことが一番の理由です。)
このような種類の苦しみ、つまり、
どんなに科学技術が発達しても、けっして救うことができない
苦しみ。
どんなに、食料生産が増加し、医療技術が発達し、産業や経済
が発展しても、けっして救うことができない苦しみ。
そのような、「心の問題による苦しみ」に対して、
既存の宗教や、あやしげな新興宗教なんかに頼ることなく、
自分なりの「救い」を求め続けていたこと。
それが、
これまで私がエッセイを書き続けきた理由の一つであったことを、
最近また、ふと思い出した次第です。
* * * * *
さて、いよいよ本題の、これまで私が求め続けてきた、
「心の問題による苦しみ」に対する「救い」についてですが、
それは次回でやりたいと思います。
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