「悪」とは何か 2
2023年3月12日 寺岡克哉
前回では、
「悪には、どんなものがあるのか?」について、
第一に、「大多数の人間が、犯罪として納得している悪」
第二に、「権威者や権力者によって引き起こされる悪」
というのを、取り上げて書きました。
今回は、その続きです。
* * * * *
第三に、
「一見すると善に見える悪」というのが挙げられます。
これは、「偽善(ぎぜん)」とか、「独善」と言われる類(たぐ)いの
ものです。
まず、「偽善」というのは、
うわべだけを飾(かざ)って、自分が正しいように見せかけたり、
あるいは、
うわべだけを飾(かざ)って、自分を善人のように見せかけること
です。
これだけだと、とくに「偽善は悪である」とまでは、言えないように
思われますが、
しかしながら偽善者というのは、その陰に隠れて「悪事」を行って
いることが多く、
その悪事を隠すために、偽善を装(よそお)っているわけです。
そのため、
「偽善は悪である」と、一般的には認識されているのでしょう。
× × ×
一方、「独善」というのは、
他人のことは全く考慮(こうりょ)しないで、自分だけが正しい
と考えることですが、
この「独善」は、「ものすごく酷(ひど)い悪」になる場合があり
ます。
たとえば、
「自分だけが正しく、周りの人間はすべて悪である!」とか、
「自分たちの所属する組織だけが正しく、周りの一般社会は
すべて悪である!」
と、いうような独善に陥(おちい)れば、無差別殺人やテロを
引き起こす原因になってしまいます。
また、
「我々の信仰する宗教だけが正しく、異教徒の存在は悪で
ある!」
と、いうような独善に陥れば、宗教戦争を引き起こす原因に
なってしまいます。
さらには、
「我々の民族が正しく、あの民族の存在は悪である!」
と、いうような独善に陥れば、民族浄化を引き起こす原因と
なってしまうのです。
この「民族浄化」というのは、大量虐殺、強姦、強制移住など
の手段で、特定の民族を殲滅(せんめつ)させることを言い、
ものすごく残忍で悲惨なものです。
このように、「独善という悪」は、
ものすごく酷(ひど)い悪になってしまうことが、多々あるの
です。
* * * * *
第四に、
「時代が進んだために、認識される悪」と、いうのが挙げられ
ます。
これは、
当初は「悪である」と認識されていなかったけれども、時代が
進んで人々の良識が向上したために、「悪である」と認識される
ようになったものです。
たとえば・・・
13世紀~18世紀のヨーロッパで行われた「魔女狩り」は、
当時は「悪である」と認識されなかったどころか、「正しい行い
である」と認識されていましたが、
現代では、「残虐非道な悪である」とされるのが、当たり前に
なっています。
また例えば、奴隷制度も、
それが行われていた当時では、悪でなく当然のこととして認識
されていましたが、
現代では、「非人道的な悪である」と認識されています。
ところで一方、
人種差別や、男女差別などは、「悪である」と認識されつつある
ものですが、
いま現在でも、その認識が、まだまだ人類全体に行きわたって
いないのが現状です。
こらから将来、人類の良識がもっと向上すれば、これらも「非人道
的な悪である」と、認識されて行くでしょう。
このように、
過去には「悪である」と認識されていなかったものが、現在では
「悪である」と認識されるようになったり、
いま現在では、それほど悪であるとは認識されていませんが、
将来的には「悪である」と認識されるようになって行くものがある
のです。
これは正(まさ)に、
「人類としての良識の進歩」を、表わしているのだと思います。
* * * * *
ところで、
人間は、生まれた時には「悪」というものを全く知りません。
それが成長するに従って、
知見を広め、洞察を深めるようになり、他人の痛みや苦しみ
を理解するようになり、犯罪などの「悪」を知って行くのです。
これは、「人間としての成長」を表わしているに他なりません。
また、社会的な良識が向上することにより、
奴隷制度や身分制度が廃止され、人種差別や男女差別が
是正されて行くこと。
これは、「人類社会としての成長」を表わしているに、他なら
ないのです。
最後に、
「悪とは何か」という問いに対する、いま現在の私の答えですが、
さまざまな悪を、しっかりと認識して、
それを行わないように、そして行わせないようにして行くこと。
それこそが、
人間としての成長の度合いや、人類社会としての成長の度合い
を、
如実(にょじつ)に表わしているのだと思います。
つまり「悪」というのは、
人間や人類社会における、「成長のバロメーター」だと言える
のです。
だから、
平然と悪を行う人間は、いくら知識があっても、幼稚(ようち)
で愚(おろ)かな人間(つまり成長が足りない人間)であり、
平然と悪が行われる社会は、いくら技術が発達していても、
拙劣(せつれつ)で遅れた社会(つまり成長が足りない社会)で
あると、
そのように私は考えている次第です。
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