落ちついて安定した心 2004年3月21日 寺岡克哉
怒りや憎しみ、情欲、執着などの感情を静めて、「落ちついて安定した心」(ニル
ヴァーナ)を目ざすことは、仏教の教えが説くところのものです。
しかし私はこれを、何か生命力の失ったような、「生きているのか死んでいるの
か分からない状態」のように感じていました。
つまり「落ちついて安定した心」に対して、無気力、無感動、無関心、無表情、無
反応・・・と、いうような印象を持っていたのです。
だから仏教の目ざすそれは、「生命の肯定に反するもの」と私は考えていました。
ところが最近は、すこし考え方が変わってきたのです。
なぜなら、「落ちついて安定した心」にも、生命のエネルギーが満ちあふれて
いることが分かったからです。
ところで・・・ 自己否定に取りつかれていた以前の私は、座禅を組んで瞑想をする
と、心が落ちついて安定し、たしかに「安らぎ」を感じることができました。
しかしながら、
「自分が生きても死んでも、何もかもどうでもいいような感じ」とか、
「暗黒の底なし沼に、どんどん沈んでいくような感じ」
がしていたのです。それで恐ろしくなり、心を落ちつかせる瞑想をそこで止めていま
した。
そのときに得られていた「安らぎ」は、無気力になって心が死んでいる、「虚ろな
安らぎ」だったのです。
しかし最近は、それとちがう感じがするようになりました。
「底なし沼」の底が見えてきたというか、地の底に足がしっかりと届いたような気が
するのです。
心が落ちつききって安定したところに、「無限の暖かさ」とか「大いなる安心」を感じ
るようになりました。
それは、「心が暗黒に沈みこむ」のとは、全くちがう感覚です。
どっしりとした不動の安らぎ。
すべてを包み込んであげられるような、心の暖かさ、思いやり、包容力。
水を吸いとる砂のように、他人の苦しみをいくらでも受け止めてあげられる、心の
広さ、奥深さ、寛容さ。
「落ちついて安定した心」には、そのような力が秘められているように思うのです。
そしてまた、「落ちついて安定した心」をいつも保っていれば、冷静な思考ができ
るようになり、適切な判断ができるようになります。
いくら精神が高揚して心が強気になっていても、心が不安定でイライラしていれ
ば、周りの状況に心がかき乱され、思考や判断が狂わされてしまいます。
精神が高揚して強気のときよりも、「落ちついて安定した心」の方こそが、「本当
に強い心」なのだと思うようになりました。
ところで「落ちついて安定した心」とは、「強い意志の力」や「生命のエネルギー」
に満ちあふれた状態です。
なぜなら、「落ちついて安定した心」とは、「フワフワと精神の力を抜いて、
無気力になること」ではないからです。
そこが、今まで私が誤解をしていたところなのです。
「落ちついて安定した心」とは、毎日の絶え間ない努力によって育成し、練り上
げていくものなのです。力強い精神力によって、常にしっかりと支えられている、
「強力な心の安定」なのです。
そうであればこそ、ちょっとやそっとでは動揺することのない、「不動の心の安定」
や「無限の心の暖かさ」、「大いなる包容力」が得られるのです。
だから「落ちついて安定した心」によって、思考力や判断力、行動力が鈍ること
はありません。
「落ちついて安定した心」とは、決して、無気力になって心の死んだ状態ではない
のです。
安らかではあるけれども強い心。
すべてを包みこむ広い心。
暖かな思いやりに満ちた心。
どっしりとした不動の心。
生き生きとして、生命のエネルギーに満ちあふれた心。
正しい思考力と判断力を、いつも失うことのない心。
これから何年かかるか分からないけれども、そのような「落ちついて安定した心」
を、自分のできる範囲で少しずつ育てて行きたいと思います。
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