人為的な神 2
2023年1月22日 寺岡克哉
前回の続きです。
* * * * *
さて、
(キリスト教に限らず)「宗教の神」は、殺人、盗み、姦淫などを
禁止しています。
しかし「私の神」は、それらの行為が、この世に存在している以上、
それらの存在を禁止しません。
ちなみに、私の神が「存在を禁止するもの」とは、
光よりも速く動く物体とか、絶対に死なない人間とか、身長が10
メートルもある人間とか、
自然法則的に、「この世に存在し得ないもの」です。
ところで、
「私の神」は、殺人、盗み、姦淫などの、いわゆる「悪」の存在を
禁止しません。
しかしながら私の神は、「悪の存在を退(しりぞ)ける」ように、働き
かけをします。
たとえば「殺人」というが悪が、社会に蔓延(はびこ)ると、
まず被害者の家族や親族が、たいへんな苦しみに見舞(みま)わ
れます。
そして周囲の住民も、社会的な不安や恐れが増大し、安心して
暮らすことができなくなります。
そのため、
警察官の動員数を増やしたり、監視カメラを設置したり、戸締(と
じま)りを強化するなどして、殺人事件が起こらないように、いろいろ
な努力をします。
また、「盗み」や「姦淫」などの悪が蔓延っても、
社会不安や家庭崩壊などの苦しみが増大するので、
犯罪を取り締まったり、社会常識を普及させるなどして、それら
の悪が蔓延るのを防ごうとします。
このように「私の神」は、
人間社会に悪が蔓延(はびこ)ると、人々の苦しみを増大させる
ことによって、
悪の存在を退けるようにと、社会に対して働きかけをするのです。
ところで、この、
「私の神」による、悪を退けるための「苦しみの増大」は、ものす
ごく厳しいものです。
それは、「戦争」という巨大な悪を見れば明らかでしょう。
戦争というものは、それを止めない限り、苦しみは果てしなく、
どこまでも増大して行きます。
そして、この苦しみの増大は、戦争を止めるまで絶対に赦して
もらえません。
それほど、悪を退けるための「苦しみの増大」は、ものすごく厳し
いものなのです。
* * * * *
ところで「宗教の神」は、
「神は善なるものである!」と、一義的、人為的に決めてしまい
ます。
そうすると、なぜ、この世に「悪」が存在するのか説明できなく
なります。
つまり、なぜ、善なる存在であるはずの神が、この世に「悪」を
創造したのか説明できなくなるのです。
そのため、
「悪魔」という、これまた人為的なものを設定しなければ、なら
なくなります。
しかし「私の神」は、
悪の存在を(退けるが)否定しないから、悪魔の存在を設定する
必要がありません。
つまり「宗教の神」は、人為的に設定されたものだから、
「悪魔」という人為的なものを、さらに設定しなければならなく
なったのです。
ここにも、「宗教の神」が、いかに人為的なものであるのかが
示されています。
* * * * *
さらに「宗教の神」は、
人為的なものであるにもかかわらず、それを認めようとしないから、
宗派対立や宗教戦争などが起こるのです。
そもそも「本当の神」とは、「この世を、この様にしているもの」なの
で、
この世(宇宙全体)に及ぼしている「神の働き」というのは、無限と
いえるほど膨大なものであり、
およそ人間なんかに、その全貌(ぜんぼう)を捉(とら)えらることは、
できる訳がありません。
それなのに、
「神の働き」の、ほんの一部分しか見ていないにもかかわらず、
「我々の神こそが、本当の神である!」と、それぞれが人為的に
勝手に決めてしまうから、
さまざまな人たちが、さまざまな神を信仰して、さまざまな宗教や
宗派ができるのです。
しかも、「神の働き」の、ほんの一部分しか見ていないのに、
「我々の神こそが、唯一絶対である!」として、他の宗教や宗派
を認めようとしないから、対立や争いが生まれるわけです。
しかし「私の神」は、
人それぞれが、「神の働き」の、ほんの一部分しか見ていない
ことを素直に認めます。
そして、
神のイメージ(神の姿)、つまり「神観」というのは、人の数だけ
存在することを認めます。
これによって、
宗派対立や宗教戦争を回避することができるのです。
* * * * *
以上、前回からここまで述べて来ましたが、
「宗教の神」は、人為的な部分が多々存在します。
そのため、科学的な事実を否定したり、悪魔の存在が必要になっ
たり、宗派対立や宗教戦争など、さまざまな矛盾や争いが起こって
います。
しかし「私の神」は、人為的なところが無いので、それらの矛盾や
争いが起こりません。
しかも、このたびは触れませんでしたが、
「私の神」を知るのに(認識するのに)、「お金」は必要ありません。
なので、献金を必要としませんし、印鑑や壺など、へんな宗教グッ
ズを買う必要もありません。
これらのことから、
「宗教の神」よりも、「私の神」の方が、
心の拠(よ)り所、生きる拠り所、自己存在の拠り所とするのに、
安心で安全で確実だと言えるのです。
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