嫌いだけど憎めない
2022年12月4日 寺岡克哉
前回の「エッセイ1081」で、
「もともと私には ”人間嫌い” の傾向がある」と、白状(はくじょう)して
しまいました。
じつを言うと私は、
生活費の確保や、食料の買い出しや、薬をもらいに病院に行くなど、
どうしても他人と関わらなければならない場合を除くと、
出来るかぎり、他人と会うのを避けたいと思っているような人間です。
しかしなぜ、私は「人間嫌い」になってしまったのか?
今しがた、ふと疑問に感じたので、ちょうど良い機会だと思い、
すこし自分の過去を振り返って、自己分析をしてみることにしました。
* * * * *
すると、まず身近で思いついた理由を挙げれば、
私に対して、くだらないマウントを取ろうとする人間がいること。(マウ
ントとは、自分が他者より優位にあるとアピールする行為。)
私を思うように動かそうとしたり、私を無暗(むやみ)に振り回そうと
する人間がいること。
重要でも必要でもなく、興味すらない話を、私に延々と聞かせるよう
な人間がいること。
私の体形や服装、所作などに対して、ネチネチと難癖(なんくせ)を
つけようとする人間がいること。
このように、
私の心の中に、ヅカヅカと土足で上がり込んできて、私の心の平安
を乱し、
私をイライラとさせるような人間が、けっこうな割合で存在しています。
というか、
私と親(した)しくもなく、私が好きでもなく、私が望みもせず、私が
必要としていないのに、
わざわざ私に近づいて、絡(から)んでくるような人間は、ほとんど
こんな人間ばかりです。
まずこれが、私が「人間嫌い」になった身近な理由でした。
* * * * *
つぎに、私には直接関係ありませんが、
私が「人間嫌い」になった「社会的な理由」と言えるようなものを、
挙げてみましょう。
すると例えば、
いじめ、パワハラ、セクハラ、児童虐待などを、平然と行う人間が
存在すること。
地球温暖化が、ものすごく大きな問題になっているのに、積極的
に取り組もうとしないばかりか、わざと足を引っぱる人間がいること。
ロシアによるウクライナ侵略など、あえて戦争を引き起こすような
人間(ロシアのプーチン大統領など)が存在すること。
このような現実を見せつけられると、
「人間というのは、本当に、どうしようもない生き物だ!」
と、思ってしまうこともしばしばです。
* * * * *
ところで私は、人間が「嫌い」ではあるけれども、
しかしながら私は、人間を「憎んでいる」わけではありません。
というのは、
(罪に問われないとしても)無差別の大量殺人などをしようとは、
絶対に思わないし、
「人類なんか絶滅すればいい!」とも、私は決して思っていない
からです。
そしてまた、
食事のときに、殺人や戦争、大きな事故や災害などのニュースが
目に入ると、
メシウマではなく、メシが不味(まず)くなるので、
テレビのチャンネルを変えるか、スイッチを切ってしまうからです。
私は、人間が嫌いだとはいえ、
できることなら、なるべく多くの人が、安らかで幸福な人生を送って
もらいたいと願っています。
そして、人が不幸になるのを見たり聞いたりするのは、やはり嫌(い
や)なのです。
このような、
「人間にたいする私の気持ち」を、強(し)いて表現すれば、
「嫌いだけど憎めない!」というのが、ピッタリと当てはまるように
感じます。
ところで、これから私の努力により、
もしも人間が好きになり、人間を愛することが出来たなら、
私は、もっともっと幸福になれるはずです。
それを頭では、しっかりと理解しており、それが正しいことも強く
確信しているのですが、
しかし、「なかなか心が従ってくれない」というのが、いま現在の
率直な気持ちです。
まだまだ私は未熟で、修行が足りないのだと、ほんとうに思い知ら
される次第です。
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