1人では生きられない
2022年11月27日 寺岡克哉
このたびの、手術と入院(エッセイ1079,1080参照)を経験し、
あらためて痛感したことがあります。
それは、「1人では絶対に生きられない!」と、いうことです。
* * * * *
ところで・・・
昨年の4月に父が死んでから、私は「1人暮らし」になってしまい
ました。
そして実をいえば、
もともと私には「人間嫌い」の傾向があって、1人暮らしが1年
以上も続くうちに、
「私は1人で暮らしでも、ぜんぜん寂(さび)しくない!」
「私は、1人だけで十分に生きて行ける!」
「私は、誰の世話にもなっていない!」
などという思いが、だんだん頭を持ち上げるようになっていました。
* * * * *
ところが!
このたびの手術と入院をしている間、治療や導尿、止血、食事など、
生きるために必要なことを、医師と看護師の皆さんに、すべて委(ゆ
だ)ねることになってしまったのです。
こんなにまで、自分自身の世話を、他人に任(まか)せてしまった
のは、
(私が赤ん坊の時ならいざ知らず)大人になってからは、初めての
ことでした。
このたびの、この経験によって、
「自分1人だけでは、ほんとうに何もできないのだなあ」と、
心の底から痛感させられて、しまいました。
* * * * *
そんなことを、病院のベッドで横になりながら思っていると、
「1人では生きられない」ということについて、考えがさらに広い
範囲へ及んで行きました。
たとえば、
入院中の食事を作るための、米やパン、肉、魚、玉子、牛乳、野菜、
その他さまざまな加工食品の「生産」。
そして、
それらの生産された食品を、運搬・販売し、料理場に調達して来る
ための「流通」。
さらには、
電気、ガス、水道などの「インフラ整備」や、清掃、ゴミ収集、冬期の
除雪など、病院の施設を維持するための仕事。
などなど、
ほんとうに見ず知らずの、たくさんの人々のお世話になっている
ことにも、
あらためて痛感させられました。
* * * * *
そしてさらに、
そもそも私は、さまざまな動物や植物を食べなければ、生きること
ができません。
また、植物が酸素を作ってくれなかったら、私は呼吸さえもでき
ないのです。
つまり、たくさんの人間の助けだけでなく、
太陽の光と、地球の生態系が存在しなければ、私は生きること
ができません。
これはもう、どうしたって、私1人だけでは絶対に生きることができ
ないのです。
このことは、20年前の最初に書いた「エッセイ1」で触れており、
それは、私の考え(大げさに言えば私の思想)の、根本をなす
ものですが、
いま一度、それを改めて思い出してしまいました。
* * * * *
以上、このたびの手術と入院を経験したことによって、
「自分は、1人だけの力で生きている!」
「自分は、誰の世話にもなっていない!」
「お金さえあれば、自分1人だけで生きられる!」
などという思いを抱くことが、ものすごく無知で傲慢(ごうまん)で
あることに、
あらためて心の底から痛感した次第です。
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