無欲の愛           2004年3月14日 寺岡克哉


 私は最近、「無欲の愛」というものが存在するのではないか? と、考えるよう
になりました。

 ここで言う「無欲の愛」は、以前にエッセイ35でお話した「無償の与える愛」とは、
ちょっとニュアンスが違います。
 「与える愛」の場合は、たとえそれが「無償の愛」であっても、「愛を与えることその
もの」が自分の幸福になっています。だからこれには、「愛を与えたい!」という、ある
意味の「欲望」が存在するのです。
 私は、それが悪いというのではありません。しかしながら、「無償の与える愛」と異
なる、「無欲の愛」というものが存在するように思うのです。

 「無欲の愛」とは、自分の欲望が皆無になったときに現れる感情です。
 たとえば私の場合では、病気になって高熱にうかされたり、冬山登山や徹夜続き
の仕事などで、体が動かなくなるほど疲労困憊したときに、このような感情になるこ
とがありました。
 自分の体にまったく力が入らなくなり、
 「私はもう、動くことも何もできない・・・。」
 「もしかしたら、このまま安らかに死んでしまっても、それはそれで良いのではない
か?」
 「これでもう、私は十分に満足だ!」
 と、感じてしまうようなとき。そのようなときは、食欲も性欲も、物欲も金銭欲も、ある
いは名誉欲や権力欲も、まったく無くなってしまいます。
 「自分はもう何も要らないし、何も欲しくない!」と、本当に心の底から、そのように
思ってしまうのです。
 (しかしながら、このような状態になることは、そうそうあるものではありません。私
の今までの人生で、3回ぐらいあった程度です。)

 「無欲の愛」は、そのような状態になって、はじめて現れる感情なのです。
 それは、
 「他の生命が、元気に幸福に生きてくれれば、ただそれだけでよい!」
 「それだけが、私の望みのすべてだ!」
 「私のやれることは力の限りやったし、他にはもう何もできない。」
 「あとは、全てをよろしく頼む!」
と、いうような感情です。

 他の生命への希望。
 他の生命への全幅の信頼。
 他の生命に、未来のすべてを託す気持ち。
 地球の生命が、これからも末永く存在することへの絶対的な安心・・・。
 自分は「いずれ死んでしまう存在」だからこそ、他の生命に対してこのような感
情が起こるのだと思います。
 ここに、「生命の本質」の一端が現れているように思います。

ところで・・・ 人間がだんだん年をとり、「自分の死」が近づくにつれてとる態度は、
大きく分けて二つあると思います。

 一つ目は、「自分の死」を理不尽で不当なものと感じ、自分の運命を恨み、呪い、
幸福そうに生きている他の生命を憎むことです。
 「どうせ私はもうすぐ終わりなのだから、いっそのこと、一人でも多くの命を道連れ
にしてやる!」
 と、いうような感情です。

 そして二つ目は、他の生命の末永い幸福を望み、それを自分の喜びとすること
です。
 「私の肉体は衰えて死んでしまうけれども、他の生命が幸福に生き続けてくれるな
らば、それが私にはとても嬉しい。」
 「それで私は、たいへんに満足だ!」
 と、いうような感情です。

 私の体力は、これからどんどん衰えていきます。
 性欲が減退し、いずれ無くなってしまうでしょう。
 食欲も小さくなり、美味しく感じる食べ物がなくなっていくでしょう。
 体の自由も、きかなくなって行くでしょう。
 そして物や金も、だんだんと意味の無いものになって行くでしょう。どうせ死ねば、
物や金は「まったく意味の無いもの」になってしまうのですから・・・。

 もしも私が一つ目の態度をとれば、私には、絶望、怒り、憎しみ、妬み、不安、
焦燥、恐怖が待ち受けているだけです。
 しかし二つ目の態度をとれば、私の体力が衰えて欲望が小さくなればなるほど、
愛、幸福、優しさ、安らぎ、満足、喜びが増大していくのです。
 なぜなら欲望が小さくなり、「自己への執着」が無くなれば無くなるほど、これらの
感情は強く大きくなって行くからです。
 「無欲」だからこそ、無限に増大する愛。そういう愛が、たしかに存在する
ような気がするのです。


 私は今まで、「無欲」というのは、
 「生きているのか死んでいるのか、分からないような状態」とか、
 「一生懸命に頑張ることをサボるための口実」
というようにしか、感じることが出来ませんでした。(というよりは、現代の社会的な
価値観によって、そのように信じ込まされていたのかも知れません。)
 しかし最近は、無欲の中にこそ、「無限の愛」が隠されているのではないか?
と、感じるようになったのです。



                 目次にもどる