怨霊や祟りについて
2022年11月6日 寺岡克哉
これまで私は、
怨霊(おんりょう)や、祟(たた)りなどと言うものは、
「まったく迷信である!」と決めつけて、その存在を完全に否定
していました。
しかし最近、怨霊や祟りなどの現象は、
「自我意識の自我意識への影響」(エッセイ1075参照)の、一つ
だと考えれば、
この世には、そのような現象も、たしかに存在するのではないか
と思うようになりました。
今回は、そのことについて、書いてみたいと思います。
* * * * *
それでは、まず最初に、
怨霊や祟りなどが、「現象」として存在するのではないかと、私が
思うようになった理由ついて話しましょう。
しかし、それは別に、私が怨霊や祟りに悩まされたという訳では
ありません。
・・・さて、私は以前に、
嫌(きら)いな知人と、もはや論争とは言えないほどの、はげしい
「言い争い」をしたことがありました。
そして、その後、何年もの時間が経つというのに、
まるでフラッシュバックのように、その「言い争い」をした時のことを、
とつぜんに思い出し、
「あの時は、ちょっと、やりすぎだったかなあ」と、後悔の念に駆ら
れてしまうのです。
ところで現在、
その知人は、すでに病気で亡くなっているのですが、
もう死んでしまったにも拘(かかわ)らず、「あの時は、ちょっと、
やりすぎだったかなあ」という後悔の念が、
やはり、ふとした時に、とつぜん湧きおこってきます。
それどころか、
とつぜんに湧きおこる後悔の念は、その知人が生きていたとき
よりも、さらに強くなっているみたいです。
かなり不謹慎(ふきんしん)な言い方ですが、
「あいつは、死んでまでも煩(わずら)わしい奴(やつ)だ!」
と、言いたくなってしまうのが、率直な気持ちです。
このように、
その人間が死んだ後にまで、自分を煩わせるという現象は、たし
かに存在します。
そしてこれが、
怨霊や祟りなどが、「現象」として存在するのではないかと、私が
思うようになった理由なのです。
* * * * *
ところで、
もしもこれが、単なる「言い争い」などではなく、
いじめ、暴力、虐待などで、相手を殺してしまうほどの、酷(ひど)い
仕打ちをしたらならば、
良心の呵責(かしゃく)による苦しみも、比べものにならないほど、
大きなものになるでしょう。
さらには、相手を殺すときに、
泣きわめいたり、悲鳴(ひめい)をあげて苦しんだり、
「恨(うら)んでやる!」とか、「呪(のろ)ってやる!」と、面と向かって
言われたりしたら、
良心の呵責による苦しみは、さらにもっと、大きなものになるでしょう。
そして、何度も何度も、フラッシュバックに襲われ、
それによって、精神に異常を来たしてしまう恐れも、十分に考えら
れます。
しかしながら、
「俺は、良心の呵責(かしゃく)なんかに、苦しむことはない!」とか、
「俺は、人を殺しても、怨霊や祟りなど怖くはない!」などと言う人
が、居るかも知れません。
たしかに若いうちは、そのように強がることで、自分を誤魔化(ごま
か)すことが、できる場合もあるでしょう。
ところが!
だんだん歳を取ってくれば、精神的に弱くなり、過去のフラッシュ
バックも増えてきます。
さらには、肉体的にも弱くなり、だんだん「自分の死」が近づいて
いることを、日に日に実感するようになります。
そうなると、
怨霊や祟りによる苦しみを、もはや無視することが出来なくなり、
歳を取れば取るほど、その苦しみが、ますます強くなって行くだ
ろうと思います。
(ちなみに私の場合は、60歳に近くなった最近まで、そのような
気持ちを理解することが出来ませんでした。)
* * * * *
以上、ここまで考察してきましたが、
「怨霊」や「祟り」というのは、おそらく、上で述べたような現象を
指しているのでしょう。
そして、このような、
「すでに死んだ人間の自我意識が、生きている人間の自我意識
に、異常を来たすほどのダメージを与える」という意味では、
エッセイ1075で書いた「自我意識の自我意識への影響」の、一つ
だと考えれば、
怨霊や祟りという現象が、たしかに存在すると、言えるのではないで
しょうか。
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