過去の自我意識
2022年10月30日 寺岡克哉
私は、これまでの20年間、本サイトでエッセイを書きつづけたこと
によって、
「過去の自我意識」と出会うことが、いつでも出来るようになったと
いうことに、
じつは最近になって、ハタと気がつきました。
それは、どう言うことかといえば、
これまで私は、どのエッセイを書いたときも、その当時に考えて
いたことや、思っていたことを、
できる限り正確に、文章として書き残しておきました。
つまり、これは、
それぞれのエッセイを書いたときの、私の「過去の自我意識」を、
文章という形で写しとり、それを現在まで、保存してきたのだと
言えます。
だから実は、
過去のエッセイを読み返すことは、過去の自我意識と出会うこと
だったのです。
そのことに、ようやく最近になって、ハタと気がついたのでした。
つまり私は、
20年前から現在までの自我意識に、いつでも出会うことができる
わけです。
しかしこれは、べつに私だけでなく、
たとえば過去の心情を綴(つづ)った、日記などの文章を書き残し
ている人なら、
「過去の自我意識」と出会うことができるでしょう。
* * * * *
さて私は、
過去に書いたエッセイを、たまに読み返すことがあるのですが、
そんなとき、つまり「過去の自我意識」と出会ったときに、ちょっと
気がついたことがありました。
それは何かというと、
以前は、間違いなく「自分の自我意識」であったはずなのに、
今では、それがまるで「他人の自我意識」であったかのように、
感じてしまう時が、あるということです。
それは、どんな時かといえば、
過去のエッセイを読んでいて、「この文章を書いたとき、いったい
私は何を思い、何を考えていたのだろう?」
と、疑問に思って分からなくなり、「その当時の自我意識」が実感
できなくなった時です。
そんなとき私は、
自分で書いたエッセイなのに、まるで他人が書いた文章を読んで
いるような感覚になり、
「過去の自我意識は、ほんとうに自分の自我意識だったのか?」
「過去の自分は、もはや他人と同じように、なってしまったのでは
ないか?」
という思いに駆られて、すこし不安な気持ちになってしまうのです。
* * * * *
ところが、その一方で、
過去のエッセイを読んでいて、「いま現在の自我意識と同じだ!」
と、つよく実感する時もあります。
それは、一体どんな時かと言えば、
過去のエッセイに書いた文章を、いま現在の私が読み返しても、
「まさに、その通りだ!」と、心の底から実感する時です。
1つだけ具体的な例を挙げると、
たとえば以下の、エッセイ2「死について」で書いた、冒頭の部分
です。
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私は、「死は苦しみではない」と考えています。
確かに、私が自分の死に直面すれば、大変な苦しみと恐怖を感じ
ると思います。
しかし完全に死んでしまい、死が完了したならば、「死そのものは
苦しみではない!」という確信を私は持っています。
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この、
エッセイ2「死について」は、じつは20年前に書いたものです。
つまり、それは20年前の、私の自我意識の一部だったわけ
です。
そして、
その20年前の自我意識と、いま現在の自我意識を、照(て)
らし合わせてみると、
「まさに、その通りだ!」と、心の底から実感できるのです。
そうすると私は、
「過去の自我意識も、たしかに自分の自我意識なのだ!」
「過去の自分は、たしかに自分自身だったのだ!」
と、自己確認をすることが出来て、ちょっと安心するのです。
* * * * *
以上、
私が「過去の自我意識」と出会うことによって、分かったことを
纏(まと)めると、以下のようになります。
まず、ふつう一般的に、
自分の自我意識は、物心がついてからずっと、同一の自我意識
であったように感じます。
が、しかし、自我意識というのは刻々と変化しており、
長い年月の間には、まるで別人の自我意識ではないかと思える
ほど、変化してしまう部分があります。
たとえば、
「あの人は、昔と人が変わった!」という言い回しは、そんなこと
を表現しているのでは、ないでしょうか。
しかし一方、
自我意識には、長い年月を経(へ)ても、ずっと変化しない部分が
確かにあります。
それは、
上で挙げた私の例のように、20年の間、ずっと変わらなかったという
だけでなく、
たとえば、「三つ子の魂百まで」という諺(ことわざ)にもあるように、
おそらく、「自我意識の根本的に不変な部分」というのは、一生を通し
て変わらないのかも知れません。
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