「現在の自我意識」の形成
2022年10月9日 寺岡克哉
すこし以前の「エッセイ1070」で書きましたように、
私の自我意識が、この世に存在することは、私にとって最大の
奇跡です。
ところで、
この「私の自我意識」は、私が生まれて物心がついてから、現在
まで継続しているものですが、
しかしながら、その間、ずっと一定不変だったのではありません。
たとえば、
「私は生きており、私には私の意識や意思があり、私は私であり、
私の他に私は存在しない」
と、いうような、自己存在の自覚に関する部分の自我意識は、
たしかに、物心がついてから今まで、ずっと不変であったように
感じます。
しかしながら、
世界観、生命観、人生観、価値観などに関する部分の自我
意識は、
教育や読書、報道などによる「情報の吸収」や、
家庭や学校、職場などでの「人間関係」によって、だんだんと
変化して行き、
それらの変化を積み重ねることで、「現在の自我意識」が形成
されてきたのだと、私は考えています。
* * * * *
ところで、「自我意識は変化する」と、上で私が主張した根拠は、
とにかく私自身の「現在の自我意識」が、むかしの若い頃と比べて、
大きく変化しているからです。
以下に、その代表的な例を、3つほど紹介してみます。
まず1つ目の例ですが、
まだ私が中学生だった頃に、10代の若者が「浮浪者狩り」と称し
て、殺人事件を起こしたことがありました。
「社会のゴミをしまつしてやった!」というのが、その事件を起こし
た理由です。
その当時の私は、
テレビのニュースを見ながら、「社会のゴミでしかない浮浪者を
殺したら、なんで悪いのかなあ?」
と、率直な気持ちで思っていました。
しかし現在では、
だれも好き好んで浮浪者になった訳でなく、やむを得ない理由
で追いつめられたのに、
そのような不幸に見舞われた人を、「社会のゴミ」と呼ぶこと自体
に、大きな反感と怒りを覚えます。
そして、まったく当然ながら、殺人は殺人であり、
「浮浪者なんか殺してもいい」などというのは、言語道断であり、
もし、そんなことを公然と言う人間がいたら、すごく胸糞(むなくそ)
が悪くて、吐き気がします。
* * * * *
つぎに2つ目の例ですが、
むかし私が若かった頃は、「戦争」でさえ、「退屈しのぎのお祭り
騒ぎ」ぐらいにしか、思っていませんでした。
世界のどこかで戦争が起こると、テレビで報道される爆発や戦闘
などの映像を、ワクワクしながら見ていたのです。
しかし現在では、
戦争で家や仕事を失い、難民になった人々・・・
怪我の痛みや、飢えや寒さに苦しむ人々・・・
子供や家族を失い、大きな悲しみに打ちひしがれる人々・・・
そして、手足を失った人々、とくに子供たち・・・ 彼らは、その
不自由な体で、ずっと生きて行かなければなりません。
これらの苦しみが、私の心に迫ってきて、とても辛い気持ちに
なってしまいます。
もう少し具体的な例でいえば、
たとえば今から32年前の、1990年に起こった「湾岸戦争」では、
テレビで報道される映像を、ワクワクしながら見ていました。
が、しかし、
いま起こっている、ロシアによるウクライナ侵略では、悲惨な映像
から目を背(そむ)けたくなりますし、
ロシアのプーチン大統領の映像が目に入ると、大きな怒りが込み
上げてきて、ムカムカと吐き気がするのです。
* * * * *
そして3つ目の例は、「神の存在」についてです。
私が高校生ぐらいの頃までは、見ることも触ることもできない「神」
など、存在する訳がないと確信していました。
そして、神を信じる人々を、「変な人間だ!」と、決めつけていた
のです。
しかし現在では、
「私の神」というものが、「この世をこの様にしているもの」として、
信仰の有無に関係なく、厳然と存在すると確信しています。
* * * * *
以上のように、昔の私と、今の私を比べると、
「ほんとうに同一の人間なのか?」と思えるほど、自我意識が
大きく変化しています。
その理由、つまり「現在の自我意識」が形成された理由は、
人生経験を重ねることで、他人の苦しみが、すこしは理解でき
るようになったからでしょう。
さらには、愛や慈悲、生命尊重などの思想に触れて、それらを
理解したからです。
とくに私の場合は、
釈迦、キリスト、トルストイ、武者小路実篤などの思想に触れた
ことが、
「現在の自我意識」の形成に、とても大きな影響を与えられたと
感じています。
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