「今」とは何か?
                             2022年10月2日 寺岡克哉


 前回で書きましたが、

 近年の私は、過去の後悔と、将来への不安ばかりに、心を奪(う
ば)われてしまい、

 「今」というものが、私には無かったことに、「ハタ」と気がついた
のでした。


 それで最近、

 「今」を充実させ、「今」を楽しみ、「今」を大切にしなければならな
いと、考えるようになったわけでした。


            * * * * *


 ところで私は、

 「今を大切にしなければならない!」と、考えているうちに、

 「いったい ”今” とは何か?」 という疑問が湧(わ)いてきました。



 それで、この疑問について考えてみようと思ったわけですが、

 以前の私が、自然科学(物理)の研究に携(たずさ)わっていた
経験から、

 まず、「今とは何か?」について、科学的に考えてみることにしま
した。



 そうしたら、まず最初に、

 今から1秒前でも、すでに過去であり、今から1秒後でも、間違い
なく未来なので、

 その両者の間に、「現在」という「今」が存在することに、気がつき
ました。



 しかしながら、

 今から1000分の1秒前でも、確かに過去であり、今から1000
分の1秒後でも、確かに未来なので、

 「今」というのは、その間に存在することになります。



 このような考え方を、さらにどんどん推(お)し進めて行くと、

 1000万分の1秒前と、1000万分の1秒後の間に、「今」が
存在し、

 1000億分の1秒前と、1000億分の1秒後の間に、そして、

 1000兆分の1秒前と、1000兆分の1秒後の間に、「今」が
存在することになります。



 このように考えてくると、

 「今」というものが存在している時間は、限りなくゼロになって
しまうほど短くなり、

 「今」という時間は、本当は(極限的には)、存在しないのでは
ないかとさえ、思ってしまいました。


           * * * * *


 さて、ここまで考察してきて、

 じつは私の他にも、同じようなことを考えている人が居ないか
どうか、すこし気になりました。

 なので、ちょっとインターネットで調べてみることにしたのです。



 そうしたら、私と同じような考察は見つからなかったのですが、

 私とは少し違った、次のような考え方が見つかりました。


 「過去は過ぎ去ってしまっており、未来はまだ起きていないから、
存在するのは現在だけである。」


 これは、

 ラッセルとか大森荘蔵という人たちが唱えた、考え方なのだそう
です。


            * * * * *


 上で述べた私の考察では、

 今というのは、極限的に「存在しない」のではないかという、
結果になってしまいました。


 が、しかし一方、ラッセルたちは、

 今だけが「存在する」という、考え方を示しているのです。



 両者を比べると、

 ちょうど反対のような考え方になっているのが、すこし面白いと
思いました。



 ところで私は、

 両者のうち、どちらが正しいのか、決着をつけるつもりはありま
せん。

 と、いうのは、

 この種の哲学的な問題には、いろいろな考え方があって良いと
私は思うし、そのことに私は「興味深さ」を感じているからです。


           * * * * *


 さて、現実的な問題として、

 「今」というものは、普段の生活をしていると、たしかに「実感」
として存在します。

 この場合の「今」というのは、いったい何なのでしょう?



 この疑問に対して私は、

 私が「今」だと思っている時間が、今なのだと考えています。

 つまり、私が「今」だと思っている時間は、1分だったり、1時間
だったり、1日だったりするのです。



 たとえば、

 「今、電話をしているところだ」と言った場合は、数分ていどの
「今」ですが、

 「今、風呂に入っているところだ」と言った場合は、数10分~
1時間ていどの「今」になります。

 また、

 「今、仕事の大詰めを向かえて大変なところだ」と言った場合は、
半日~1日ていどの「今」になるでしょう。



 このように、

 私が思っている「今」というのは、さまざまな場合によって、

 数分~1日ていどまで、時間の幅があるのだと考えています。


            * * * * *


 さらに例えば、

 何年もかかる長期計画の仕事などでは、直近の1週間や1ヵ月間
ぐらいでも、「今(現状)」と捉(とら)えるでしょうし、


 数千年という歴史的な話になると、直近の10年間ぐらいでも、「今」
であると捉えるでしょう。


 そしてさらに、46億年という地球史的な話になると、

 現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生したとされる20万年前でさえ、
「今」であると捉えることでしょう。



 このように、「今」と捉える時間の長さは、

 考える対象や、取り扱う対象によっても、大きく変わってくるのだと
思います。


             * * * * *


 ところで私は、

 ここまで述べてきた、「時間的な今」ではなく、それとは別に、

 「心情的な今」というのも、あるのではないかと考えています。



 つまり、なんと言いますか、

 「私は今ここに在る」と、いうような場合の「今」です。



 それは、たとえば、

 過去の後悔や、将来への不安に心を奪われて、「心ここに在ら
ず」という状態とは、まったく正反対の、

 「私は今ここに在る」という、とても充実して、満足し、安らかな
気持ちになっている状態。

 そして、

 「私は今ここに在る」という、どっしりと大地に足をつけたような、
とても安定して落ち着いた気持ちになっている状態。



 そのような、

 好ましい心の状態を導(みちび)いてくれる、「私は今ここに在る」
という「今」。

 この「今」こそが、

 私が大切にしなければならないと考えている「今」の、ほんとうの
正体ではないかと考える次第です。



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