何のために生きるのか 4
                              2022年7月3日 寺岡克哉


 前回の考察では、

 「いったい自分は、何のために生きるのか?」

 という問いに対して、

 「”生きる価値観” のために生きる」

 という答えに、たどり着きました。



 しかしながら、ここで、

 「なぜ、”生きる価値観” のために生きるのか?」

 と、さらに問うてみましょう。



 この問いに対する「答え」として、私は、

 人それぞれが、「それぞれ自分の生きる価値観」のために
生きることによって、

 それぞれの人が、「自分の幸福を感じる」からだと、考えて
います。



 つまり、

 「いったい自分は、何のために生きるのか?」という問いに
対して、

 結局、「自分の幸福のために生きる」というのが、

 最終的な「答え」ではないかと、いま現在の私には思えるの
です。



 この、「自分の幸福のために生きる」というのは、

 ごくごく自然で尤(もっと)もであり、ものすごく当たり前なこと
なので、

 幅広く多くの人に、納得して頂ける「答え」ではないかと思い
ます。


          * * * * *


 ところで、

 「困っている人々のために生きる」とか、

 「救(すく)いを求める人々のために生きる」とか、

 「世のため人のために生きる」などのように、

 「他人の幸福ために生きる」という人も、世の中に少なからず
存在しているのは、否定できない事実です。


 しかし、その場合でも、

 「他人の幸福ために生きることが、自分の幸福である」

 と、感じる人間がいるからこそ、さまざまな利他行為が存在す
るのだと、私は考えています。



 また、あるいは、

 他人の不幸を、そのまま放置して、見て見ぬふりをすると、

 自分も辛く感じて苦しみ、不幸に陥(おちい)ってしまうので、

 他人を助けるという場合もあるでしょう。


 しかしながら、この場合でも、

 「他人を助けることによって、自分の不幸を退(しりぞ)けた方が、
自分は幸福である」

 という、「自分の幸福のため」の、利他行為だと言えるのです。


           * * * * *


 ところで・・・ 

 「こんな状態なら、死んだ方がましだ!」とか、

 「これ以上、苦しみが続くのなら、死を迎えた方が幸福だ!」

 と、思いたくなるような場合も、長い人生の中には、たしかに
存在するでしょう。



 たとえば、私の身近な体験から例を挙げると、

 末期のガンを患(わずら)った母が、近いうちに、絶対に死ぬこと
が分かっており、

 抗ガン剤治療を、最後の最後まで続けても、いたずらに苦しみ
を長引かせるだけだった・・・ という状況が以前にありました。

 そのため結局、母本人の同意の下で、抗ガン剤治療を打ち切っ
たのです。



 このような状況下では、

 「自分の幸福のために生きる」のではなく、

 「自分の幸福のために死を選ぶ」という場合も、たしかに考え
られます。



 心苦しくもあり、あまり認めたくないけれど、

 「幸福のために死を選ぶ」という場合が存在することも、

 否定できない現実として、受け入れなければならないと、

 いま現在の私は考えています。


           * * * * *


 ところでまた、

 いじめや、パワハラ、過労うつなどで、死んでしまいたくなる
場合も、

 この現代社会においては、少なからず存在することでしょう。



 が、しかし、この場合は、

 上で挙げた「末期ガンの例」とは違い、

 近いうちに絶対に死ぬことが、決まっている訳ではありません。



 さらには、

 生活する場所を変えたり、生活環境を改善すれば、

 死にたくなるような状況から、脱却(だっきゃく)することが出来て、

 「自分の幸福のために生きる」ことが出来るようになる可能性が、

 まだまだ大いに、十二分にあります。



 なので、このような場合は、

 たとえ生きるのが辛くても、死を選ぶことなく、何とかして生き続け
る選択をしてほしいし、

 そうするべきだと、私は考えている次第です。



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