私が望む死期
                            2022年6月19日 寺岡克哉


 近ごろ私は、

 この先、あと何年ぐらい生きられるのだろうかと、

 かなり気にするように、なって来ました。



 ちなみに私は、来月で59歳になりますが、

 この年齢になって、いま現在、けっこう強く思っているのは、

 まず、あと30年は、絶対に生きられないだろうなと、言うこと
です。


 つまり、病気持ちで、独(ひと)り身であり、

 体の自由が利(き)かなくなったときに、身の回りの世話をして
くれる人がいない私が、

 あと30年も生きることができたら、それこそ奇跡に近いとさえ
感じるのです。



 それで、まあまあ妥当な所としては、

 あと20年ぐらい生きられたら、かなり上々かなと思っています。



 しかし、もしかしたら、

 あと10年でさえ、生きることが出来ないかも知れないと、思って
しまうことがあります。

 たとえば、

 家の中で、心臓発作や、脳卒中、熱中症、急性肺炎などの
急病に襲われたとき、

 独り身である私が、自力で救急車を呼ぶことができなければ、
それだけで死んでしまうでしょう。

 あるいは、

 (これは誰にでも言えますが)突然の事故や災害に遭(あ)って
しまう可能性もあり、

 私が、あと10年以内に死ぬというのも、そんなに低い確率では
ないような気がするのです。


           * * * * *


 ところで、私が10代や20代だった若い頃は、

 自分が高齢になったら、病院のベッドで生命維持装置に囲ま
れ、身動きができない状態になったとしても、

 できる限り、1秒でも長く生きたいし、そうするべきだと思って
いました。


 なぜなら、

 この世に生まれたからには、可能なかぎり、生きられるだけ
生き抜くことが、

 「命を授(さず)かった者の責務である!」と、そのように強く
思っていたからです。



 ところが最近では、ずいぶんと、私の心境が変わってきました。

 つまり、

 「何がなんでも、1秒でも長く生きてやる!」

 「それが、この世に生まれた自分の責務なのだ!」

 と、いうような気持ちが、いつの間にか消えて無くなってしまい、


 「とことん無理をしてまで、長生きする必要など、じつは無いので
はないか?」

 「無理して長生きしようとせず、死ぬ時がきたら素直に死ぬのが、
生命として自然ではないのか?」

 と、思うようになって来たわけです。



 とにかく、いま現在の私は、

 一人で風呂に入れなくなったり、

 一人で食事を取ることが出来なくなったり、

 一人でトイレに行けなくなったら、

 「もう、死んでも良いのではないか」と、感じるようになっています。



 本当のことは、その時になってみないと、分からないのかも知れま
せんが、

 あまりにも他人に手間をかけさせてまで、長く生き続けることには、
心理的に大きな抵抗があります。

 そして、

 自分で、自分の身の回りの面倒がみれなくなったら、潔(いさぎよ)
く死を受け入れるというのが、すごく自然なことであるように感じるの
です。


            * * * * *


 ところで、上のような心境の変化には、

 ガンで死んだ母の、介護をした経験が、大きく影響しているのかも
知れません。



 末期のガンで、どんどん痩(や)せ細り、弱っていく母を見ていると、

 とことん抗癌剤を使って、無理に長生きさせるのは、まず母本人
が望んでいなかったし、

 私も「それは可哀(かわい)そうだなあ」と、思ってしまったのです。



 それで、

 まだ試(ため)せる抗癌剤があったにもかかわらず、「抗癌剤治療
を打ち切る」という選択をしました。


 もしも、

 その抗癌剤を使ったとしても、あと1ヵ月か2ヵ月ぐらいしか、寿命
を延(の)ばせなかっただろうし、

 それまでの間、抗癌剤の副作用で、さらに母を苦しませることにも
なってしまいます。


 なので、

 (母と合意した上で)抗癌剤治療を打ち切ったことに対して、

 私は、それほど後悔をしていません。



 おそらく、このときの経験が引き金になって、

 「無理をしてまで長生きするよりは、死ぬ時がきたら素直に死ぬ
のが、生命として自然なことではないか」

 という方向に、私の心境が大きく変わって来たのだろうと、思って
いる次第です。



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