人生の完成
2022年6月12日 寺岡克哉
じつは・・・
私には、もう20年以上も前から、
ずっと頭から離れることがない、とても重要な問題があります。
それは、
いったい私は、死ぬまでに、なにを成し遂げたいのか?
いったい私は、死ぬまでに、どんな人間になりたいのか?
私が死ぬまでに達成したい、「人生の完成した状態」とは、
一体どんな状態なのか?
と、いうような問題です。
上のような問題の答えを、
私は長い間ずっと探し求め、考え続けているわけですが、
ようやく最近になって、その答えが少し見えてきたような気が
しましたので、
今回は、それについて書いてみたいと思います。
* * * * *
まず最初に、結論を言ってしまうと、「私の人生が完成した状態」
というのは、
「この世に対する 慈(いつく)しみで、心の中が満ち溢(あふ)れ
ている状態」です。
それが、どのような状態なのか、もうすこし具体的に説明してみ
ると、
なんと言いますか、この世(この世界)に対する、
素晴らしさというか、有難さというか、嬉(うれ)しさというか、愛お
しさというか、そのような気持ちで心の中がいっぱいになり、
この世(この世界)に対して、
まるで小さな幼子(おさなご)を優しく抱いて、温かく包み込み、
大切に守ってあげたくなるような、
そのような気持ちで、自分の心が満ち溢れている状態です。
さらには、
すこし大げさになるかも知れませんが、その時に感じる心の状態
を、もっと率直に言うと、
たとえば、「慈愛の神」というものが存在するとして、
その神の、無限の愛で世界を慈しんでいる心と、自分の心が
一体となり、
そのような「無限の慈しみ」で、自分の心の中が、満ち溢(あふ)
れている状態。
つまり、誤解を恐れずに言えば、
まるで神と自分が一体になったように感じる状態が、「私の人生
が完成した状態」なのです。
* * * * *
ところが、
「私の人生が完成した状態」というのは、
ほんの一時(いっとき)だけ、現れたと思ったら、すぐに消えて
しまいます。
つまり、
「私の人生が完成し、私は人生の最終目的を達成したのだ!」
と、実感できるのは、ほんの一時だけなのです。
というのは、
はたと我に返って、意識が現実世界にもどり、
お金(生活費)や、体の健康などの心配が、すこしでも心をよぎっ
たり、
事故や犯罪、災害、戦争などの悲惨なニュースが、すこしでも目に
入ったりすると、
不安や恐れ、怒り、憎しみなどの感情が生じて、
「この世に対する 慈しみで、心の中が満ち溢れている状態」という
のが、すぐに吹き飛ばされてしまうからです。
そのときの気持ちを、誤解を恐れずに言えば、
まるで天上界から、地の底へと、引きずり落とされたような気分に
なります。
* * * * *
そのため私は、
「人生が完成した状態」が、できるかぎり長く持続するように、
つね日頃から意識をしているのです。
が、しかし、
なかなか思うように出来ないのも、正直なところです。
もしも、
「人生が完成した状態」が、ずっと死ぬまで続くようになったら、
その時こそ、本当に、
「私の人生は完成したのだ!」と、自信を持って断言することが
出来るのでしょう。
しかしながら、それは、
私が死ぬまでに、達成できないかもしれませんし、
本音(ほんね)を言えば、達成できない可能性の方が、大きいと
さえ感じてじています。
しかし、それでも、自分が死ぬ直前ぐらいは、
「この世に対する 慈しみで、心が満ち溢れている状態」を保ち
ながら、
死んで行きたいと思っています。
つまり、
「私の人生が完成し、人生の最終目的は達成されたのだ!」
と、心から確信を持つことができ、十二分に満足した状態の中で、
最後には死んで行きたいものだと、私はつよく願望している次第
です。
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