真理について
                             2022年5月8日 寺岡克哉


 「真理」というと、

 一生涯の努力(研究や修行)をして、やっと見つけることが
できるような、

 なにか、とても難しくて、深遠なもののように感じます。



 事実、むかしの私も、

 「真理」というのは、一生をかけて探求するものであり、

 しかも大多数の人は、一生をかけたとしても、真理にたどり着く
ことが出来ないものと思っていました。



 しかし、現在の私は、

 「真理」というものの多くが、たとえば「1+1=2」のような、

 ごくごく「当たり前」のことの中に、存在していると考えています。



 つまり、ごくごく「当たり前」であるからこそ、

 万人が認める「真理」になり得るのだと、私は思うわけです。

 「真理」だからこそ、難しい説明や考察や議論などの必要なく、

 「そんなのは当たり前だ!」と、ほとんど全ての人間が、なんの
疑問を感じることなく、

 それが本当に正しいことだと、心の底から納得できるわけです。



 たとえば・・・ 

 水は、上から下に流れる。

 物は、上から下に落ちる。

 時間は、過去から未来に流れる。

 「結果」が存在すれば、その「原因」が必ず存在する。

 何事も「始まり」があれば、必ず、その「終わり」がある。


 (肉体としての)人間は、生まれたからには必ず死ぬ。

 永遠に生きる(肉体としての)人間はいない。

 飲み食いをしなければ、(肉体としての)人間は、死んでしまう。

 時間が経てば、(肉体としての)人間は老いる。

 (「肉体として」と断っているのは、たとえば釈迦やキリストの
ように、「精神として」は永遠に生きる場合があるからです。)



 等々、これら上の例のように、

 誰が聞いたって、「そんなのは当たり前だ!」と、思えることだ
からこそが、

 それが「真理」であると、万人が認めるものとなるのです。


            * * * * *


 しかしながら、

 いちど気がついてみると、「それは真理だ!」と、すぐに納得
できるのですが、

 その最初の一度が、なかなか気づくことが出来ないものもあり
ます。



 その例を挙げると、

 たとえば私の場合は、「愛すれば幸福!」という真理でした。



 「愛すれば幸福!」という真理は、

 まず最初に、いちど愛することが出来て初めて、それが真理で
あると納得できます。

 そして、「愛すれば幸福になるのだ!」と、心の底から実感でき
るのです。



 ところが、

 まず最初に、「いちど愛すること」というのが、

 なかなか、そう簡単に出来ることではないのです。



 とくに、

 家庭や学校や会社などで、人間関係がうまく行かなかったり、

 自己嫌悪や、絶望や孤独に陥(おちい)っていたり、

 怒りや憎しみ、妬(ねた)み、恨(うら)みなどに駆られていれば、

 「いちど愛すること」なんて、ほとんど不可能だと思えるほど、なか
なか出来ることではないのです。


            * * * * *


 さらにまた、

 さまざまな困難を克服して「いちど愛すること」ができ、「愛すれば
幸福!」という真理を実感してもなお、

 心が落ち込んだり、怒りや憎しみに駆られたりして、愛することが
出来なくなる場合もあります。



 私の場合、いちばん最近の例としては、ウクライナにたいする
ロシアの侵略でした。

 破壊された街々や、避難民の人々や、拷問や虐殺などの報道を
見せつけられるたびに、

 怒りと憎しみの感情に駆られて、愛することが出来ず、なかなか
幸せな気持ちになれないのです。


            * * * * *


 以上、ここまで述べてきましたように、

 「真理」の多くは、たとえば「水は上から下に流れる」のような、

 ごくごく「当たり前」なことの中に存在しています。



 しかしながら、

 「愛すれば幸福!」という真理のように、

 なかなか得難く、しかも、それを維持するのが難しい真理もあり
ます。



 そのため、

 「愛すれば幸福!」というような類(たぐい)の真理を得て、それを
維持するためには、

 一生涯の努力を続けて行くことが、どうしても必要になってくるの
です。



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