敵を愛するのは難しい
2022年4月10日 寺岡克哉
キリストは、「敵を愛せ」と言いましたが、
私は歳をとり、人生経験が増せば増すほど、それがいかに難しい
ことなのかを、思い知らされています。
たとえば、私が若い頃には、
「敵を愛しなさい」とか、「憎悪と報復の連鎖を、断ち切らなければ
ならない」
などの言葉にたいして、「それはそうだろうな」という程度の感想
しか持っておらず、
それが、ものすごく難しいことであるとは、少しも思っていませんで
した。
そのため、
内戦や、民族紛争や、テロなどの報道を見では、
「キリストは、敵を愛せと言ったではないか!」
「なぜ、報復の連鎖を止めないのだ。本当に愚かな人たちだ!」
などと、したり顔で批判していたものです。
なぜ、恥ずかしげもなく、そんな批判ができたのかと言えば、
私が若いころには、まだ人生経験が浅く、
「敵への怒りと憎しみ」というものに対して、心からの理解が足り
なかったからです。
しかし、現在の私には、
うつ病になったり、自殺寸前にまで自分を追いつめた敵・・・
自分の目の前で、親や子供などの肉親を殺した敵・・・
こんな敵を愛することなど、ほとんどの人間には、まったく不可能
であると思えてなりません。
なぜ、私の考えが、そのように変わったのかと言えば、
人生経験を重ねることによって、「敵から与えられる苦しみ」や、
「敵に対する憎しみ」というものを、あるていど理解できるようになっ
たからです。
そしてまた、
両親の介護を通して、「肉親の体調管理の心配」や、「肉親が死ん
で行くことの、やるせなさ」を、心の底から思い知ったからです。
つまり例えば、
両親の体調に注意して、毎日心配しながら、1日でも長く生きられる
ように介護をしていたのに、
それを私の目の前で、いきなり有無を言わさず両親が惨殺されたら、
そんな敵を愛することなど、私には絶対にできません。
それは例えば、
子供を一生懸命に育てている親が居たとして、その親の目の前で
子供が惨殺されとしたら、同じような思いに駆られることと思います。
* * * * *
しかしながら、
怒りや憎しみの感情に駆られている状態は、不幸そのものですし、
以前の「エッセイ1036」で書いたように、愛すれば幸福です。
だから、いくら敵であっても、
怒ったり、憎んだりするのを止めれば、不幸ではなくなり、
さらに愛することが出来れば、幸福になることさえ可能でしょう。
が、しかし、それを頭では理解できるのですが、
敵を愛することには、心がどうしても拒否反応を起こしてしまい
ます。
でも、それは、人間として至らないのではなく、人間として自然な
ことだと思うのです。
おそらく、敵にたいする怒りや憎しみの感情は、
自分たちを害する敵を倒して、家族や仲間を守って生き残ると
いう、「生存本能」に根ざした感情であり、
人間がもつ感情の中でも、いちばん本能的で、もっとも強い感情
なのだと思います。
そのため、敵を愛するというのは、
ふつう人間には、ほとんど不可能な行為となっているのでしょう。
* * * * *
ところが、
とても身近なところに、敵を愛するとまでは行かなくても、
敵に対する怒りや憎しみを克服したという、実例があることに
気がつきました。
それは、
私たち日本人が、アメリカ人に対して、怒りや憎しみの感情を、
とくに持っていないということです。
つまり、かつてアメリカは日本にたいして、
東京大空襲や、広島・長崎への原爆投下など、
とても人間の為せる業(わざ)ではなく、悪魔の所業(しょぎょう)
とも言えるような、大残虐を行いました。
(東京大空襲で確認された遺体は約10万5400人、負傷者は約
15万人、罹災者は約300万人。原爆による死者数は、2019年
8月時点で、広島31万9186人、長崎18万2601人。)
これらの大残虐に比べたら、
プーチン大統領やロシア軍が、ウクライナに行っている残虐など、
その大きさでは、まったく足下(あしもと)にも及ばないほどです。
だから、
アメリカの空襲による被害者の方々や、その遺族の方々、そして
原子爆弾の被ばく者や、被ばく者二世の方々ならば、
アメリカ合衆国や、アメリカ人にたいして、すごく大きな怒りや憎し
みの感情を持ったとしても、まったく不思議ではありません。
それなのに、
日本国内でアメリカ人を狙ったテロが起こったり、日本人がアメリカ
に渡ってテロを起こしたという話を、私は聞いたことがないのです。
日本人には、敵を愛するとまでは行かなくても、敵への怒りや
憎しみを克服したという実績がある!
そのことに気がついたとき、私は日本人を、ちょっと誇らしく思いま
した。
そして私も、多少のことであれば、怒りや憎しみの感情を抱かない
ようにしようと、気持ちを新たにした次第です。
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