私の神 5
                             2022年2月27日 寺岡克哉


●「私の神」の否定はナンセンス

 すこし以前に書いた、エッセイ1039「私の神 2」で、「私の神」を
定義しました。

 が、そのとき、話の本題から逸(そ)れるので、あえて触れません
でしたが、書き漏らしたことがあったのです。

 それは、「 ”私の神” の存在を否定するのはナンセンスだ!」と、
いうことです。


 今回は、それについて説明して行きたいと思います。


            * * * * *


 まず、エッセイ1039で、

 「私の神」とは、「この世を、この様にしているもの」である。

 と、定義しました。



 ここで、

 「この世」とは、人間や人類社会、生命、生態系、地球、太陽系
や銀河系を含めた、宇宙全体のことをいいました。

 また、

 「この様にしている」とは、この様に存在させ、この様な状態にし、
この様な状況にしているという意味でした。

 そして、今しがた気がついたのですが、

 「この様に」というのは、「いま在る様に」という意味で、私は使って
いたのです。



 なので、「私の神」とは、

 人間や人類社会、生命、生態系、地球、太陽系や銀河系を含めた
宇宙全体を、

 いま在る様に存在させ、いま在る様な状態にし、いま在る様な状況
にしているものである。

 と、定義されることになります。


            * * * * *


 ところで、以上のように「私の神」を定義すると、

 「私の神」は、それを信じようが、信じまいが、そんなことには一切
関係なく、厳然と存在することになります。



 なぜなら、

 「この世を、この様にしているもの」が存在しなかったら、

 この世が、この様になっているはずがないからです。



 つまり、

 人間や人類社会、生命、生態系、地球、太陽系や銀河系を含めた
宇宙全体が、

 いま在る様に存在し、いま在る様な状態で、いま在る様な状況に
なっている以上は、

 「この世を、この様にしているもの」である「私の神」が、絶対に存在
しなければならないのです。


             * * * * *


 しかしながら、ここで、

 「私の神」の存在など、なにが何でも否定してやろうという、

 ものすごく「ひねくれた人間」が、いたと仮定しましょう。



 ところが、もしも、そんな「ひねくれた人間」の言うことが正しけ
れば、

 「この世が、この様になっている」にもかかわらず、

 「この世を、この様にしているもの」が、存在しないことになって
しまいます。



 つまり、

 人間や人類社会、生命、生態系、地球、太陽系や銀河系を含め
た宇宙全体が、

 いま在る様に存在し、いま在る様な状態で、いま在る様な状況に
なっているにもかかわらず、

 その原因も、その理由も、すべて存在しないことになってしまうの
です。



 これでは、

 原因や理由が存在しないのに、結果だけが存在することになり、

 「因果関係の否定」だと言わざるを得ません。



 しかし、ちょっと考えれば、

 「因果関係の否定」は、まったく「ナンセンス」であることが分かり
ます。


 なぜなら、

 たとえば私が存在するのは、両親が結婚して、私を生んでくれた
からであり、

 人類が存在するのは、地球に生命が誕生して、それが進化した
からであり、

 地球や太陽が存在するのは、星間物質が重力によって集まった
からであり、

 この宇宙が存在するのは、ビッグバンによって宇宙が誕生した
からです。


 これら上の例のように、

 「この世が、この様になっている」ためには、さまざまな原因や
理由が、必ず存在しなければなりません。

 つまり、さまざまな「因果関係」が、必ず存在しなければならない
のです。

 ゆえに、

 「因果関係の否定」は、まったく「ナンセンス」であると、結論せざ
るを得ないのです。



 さらにまた、

 「因果関係の否定」は、この世を理解することの意義や、この世を
理解するための努力を、すべて否定することになります。


 つまり、因果関係の存在を否定すると、

 この世のさまざまな事象に対して、原因も理由も存在しないの
だから、

 原因の究明も、理由の探求も、その全てが無意味になってしまう
わけです。


 が、しかし、そんなことは絶対にありません!


 なぜなら、

 もしも、この世のさまざまな事象に対する、原因の究明も、理由の
探求も、すべて無意味だとすれば、

 人類の活動の大部分が、無意味となってしまうからです。


 たとえば、

 仕事のトラブルの原因を明らかにしたり、仕事がうまく行かない
理由を調べたり、病気の原因を研究したり、怪我や事故の原因を
調査したり、その他さまざまな学問や研究なども含めて、

 それら活動のすべてが、まったく無意味になってしまうわけです。


 しかし、そんな訳が、絶対にあるはずが無いのは明白です。

 このことからも、「因果関係の否定」は、ナンセンスだと言わざる
を得ないのです。



 以上から、

 「私の神」の存在を否定することは、「因果関係の否定」であり、

 「因果関係の否定」は、ナンセンスであることから、

 「私の神」の否定は、ナンセンスであると結論できるのです。


 ゆえに「私の神」は、厳然と存在するのであり、

 このことに関して、もはや議論の余地は、まったくありません。


            * * * * *


 ところで、なぜ今回のような文章を、あえて書いたかといえば、

 それは、「私の神」が存在することの正しさを強弁し、

 読者の皆さんに対して、「私の神」の存在を認めるように、強要
するためではありません。



 そうではなく、

 もし、それぞれの人が、各自に「私の神」を心に抱き、それと共
に生きようと決心したとき、

 その決心に対して、何がなんでも否定してやろうという人間が
現れて、いろいろと難癖(なんくせ)をつけられたとしても、

 そんなことで自信を失ったり、迷ったりしてほしくないからです。



 これまで何回も述べて来ましたように、

 「私の神」は、その定義上、厳然と存在するのは明白です!

 これに対して、疑(うたが)う余地や、正当に反論できる余地など、
まったくありません。

 そのことを、しっかりと理解していただき、

 無責任でナンセンスな反論によって、「私の神」を捨ててしまうよう
なことは、絶対にしてほしくないのです。



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