「私」とは何か 1 2004年2月15日 寺岡克哉
私は今まで、「生命」というものについて色々と考えてきました。
しかしそれは、「私とは、いったい何なのか?」という問題についても考えて
いたことに、今さらながら気がついたのです。
それで今まで考えてきたことを、一度そのような観点からまとめてみたくなりま
した。
これからしばらくの間は、そのことについてお話したいと思います。
まずはじめに、今まで行ってきた考察の中から、「私とは、いったい何なのか?」
ということに関係するものを探してみました。そうすると、次のようなものがありま
した。
1.自我意識としての私
2.肉体としての私
3.精神的な情報としての私
4.DNAとしての私
5.物質としての私
6.エネルギーとしての私
しかしこれらは、私が今まで書いたエッセイの、あちらこちらに散らばっています。
しかも、その時その時で、考察の目的も観点もバラバラです。
それで、これらを今の観点からもう一度とらえ直し、いろいろと考え直してみたい
と思うのです。
これから先は、上に挙げた項目について、すこし詳しくお話して行きたいと思い
ます。
1.自我意識としての私
これは、私の自我意識が、「私は生きている!」とか「私は存在する!」と感じる
「私」です。
自我意識としての私は、「いちばん存在が確かな私」のように思えます。
なぜなら、「私は存在する!」と疑いなく確信ができるのは、私の自我意識がい
つも「私の存在」を実感しているからです。
しかしよく考えると、この「自我意識としての私」は、決して自分が思っているほど
「確かな存在」ではないことが分かります。結構あやふやな所があるのです。
それは例えば、私が熟睡をしているときに、自我意識が完全に消滅していること
からも分かります。
このように「自我意識としての私」は、つねに存在する訳ではないのです。
また例えば、私はちょうど1年前のおなじ日に、自分が何を見て何を考え、何を
感じていたのかを、いくら思い出そうとしてもまったく思い出せません。
しかしその当時にも、「自我意識としての私」は、確かに存在していたはずです。
それなのに、今ではそれが完全に消滅してしまったのです。
このように「自我意識としての私」は、過去にそれが存在していても、時間が
経てば消滅してしまうのです。
また、過去の記憶がのこっている場合でも、「自我意識としての私」は、時間が経
てば「別人」のようになってしまいます。
たとえば私は、20年前に大学の山岳部に所属し、ロッククライミングや冬山登山
をやっていました。
しかし今の私には、「昔の私」がそんなことをやっていたなんて、とても考えられな
いことだし、とても信じられないことなのです。
今から思うと、その当時の私は「別人」だったように、どうしても感じてしまいます。
また、
10年前の、大学院で物理学の研究をやっていた「私」。
5年前の、ラーメン店で調理師見習いをやっていた「私」。
それらの「私」も、今の私からはとても考えられないし、とても信じられない「私」
なのです。
このように「自我意識としての私」は、時間が経つと「別人」になってしまい
ます。
それは例えば、他人や、今は死んでしまった故人に対する思い出と、まったく同じ
ようになってしまうのです。
つまり、今ここで感じているのと同じ「自我意識としての私」は、すでに消滅してい
るのです。
「自我意識としての私」は、確かに、自分がその存在をいちばんよく実感できる
「私」です。
だから、「自我意識の存在こそが、自分が存在することの絶対的な証明だ!」と、
ほとんどの人が考えるかと思います。
しかし「自我意識としての私」は、熟睡をしているときのように、つねに存在する訳
ではありません。また、現在は確かに「自我意識としての私」が存在していても、時
間が経てば消滅してしまいます。
つまり「自我意識としての私」は、べつに自分の死を待つまでもなく、生きて
いるうちに次々と消滅していく「私」なのです!
「自我意識の存在」を、自己存在の絶対的な拠り所にしている人には、耐え難い
ことかも知れません。しかしそれが、「自我意識としての私」の真相だと思うのです。
2.肉体としての私
これは、「生きた肉体」として存在する「私」です。
頭や胴体や手足によって構成される「私」。あるいは、骨や筋肉、内臓、脳、皮膚
などによって構成される「私」です。
「肉体としての私」は、「自我意識としての私」にくらべると、「私は存在する!」と
いう実感が少ないかと思います。
なぜなら、怪我や病気、飢え、渇き、寒さ、暑さどに苦しんだり、あるいは肉体
労働などで極度の疲労でもしない限り、「肉体の存在」をあまり強く意識しないから
です。
確かに、ひどい怪我をして激しい痛みに苦しめられれば、「肉体の存在」を嫌と
いうほど思い知らされます。しかし体が健康であれば、ふだんは「肉体の存在」を
意識できません。それは肉体が、そもそも「意識」というものを持っていないから
です。
「肉体としての私」は、意識の存在とは関係なく存在する「私」です。
だから、「自我意識としての私」が存在しなくても、「肉体としての私」は存在する
ことができます。
たとえば、熟睡をして自我意識が存在しなくても、「私は存在する!」といえるの
は、「肉体としての私」が存在するからです。
また、1年前の自我意識が完全に消えてしまっても、「私は確かに存在した!」と
いう確信が持てるのは、やはり「肉体としての私」が存在していたからです。
先ほどお話したように、「自我意識としての私」は、生きている間に次々と消滅し
ていく「私」でした。しかし「肉体としての私」は、私が生まれてから死ぬまでずっと
存在する「私」なのです。
3.精神的な情報としての私
申し訳ありませんが、この続きは次回にお話したいと思います。
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