私の神 2
2022年2月6日 寺岡克哉
●「私の神」の定義
そもそも「神」というのは、定義できるものなのか、あるいは
定義して許されるものなのか、ちょっと疑問に感じるところが
あります。
しかし、あえて、「私の神」を、ここで定義してみることにします。
なぜなら、「私の神」を定義することで、「私の神」を具体的に
捉(とら)えることができるからです。
じつは私は、「私の神」の定義について、これまで色々と考えて
きました。
その結果、
「私の神」とは、「この世を、この様にしているもの」である。
と、定義するのが、いま現在において、いちばん妥当ではない
かと考えています。
ここで、
「私の神」というのは、前回で述べたように、私の考える神、私の
感じる神、私の求める神のことです。
また、
「この世」とは、人間や人類社会、生命、生態系、地球、太陽系
や銀河系を含めた、宇宙全体のことをいいます。
そして、
「この世を、この様にしているもの」というのには、つぎの三つの
意味が含まれています。
1.この世を、この様に「存在」させているもの。
2.この世を、この様な「状態」にしているもの。
3.この世を、この様な「状況」にしているもの。
つまり、
私の考える神、私の感じる神、私の求める神というのは、
人間や人類社会、生命、生態系、地球、太陽系や銀河系を
含めた宇宙全体を、
この様に存在させ、この様な状態にし、この様な状況にして
いるものです。
* * * * *
つぎに、
「私の神」について、もうすこし具体的に書いてみましょう。
たとえば・・・
「私の神」とは、ビッグバンを起こさせて、この宇宙を誕生させた
もの。
「私の神」とは、ビッグバンのエネルギーから、水素やヘリウム
などの物質を作り出したもの。
「私の神」とは、この宇宙に、恒星や惑星そして地球を作った
もの。
「私の神」とは、この地球に生命を誕生させ、それを人間にまで
進化させたもの。
「私の神」とは、私たち人間に、自我意識や思考能力や感情を
持たせたもの。
「私の神」とは、私たち人間を、愛すれば幸福になり、憎んだり
怒れば不幸になるようにしたもの。
「私の神」とは、さまざまな自然法則や、さまざまな因果関係や、
さまざまな偶然や必然を、司(つかさど)るもの。
具体例を上げれば、まだまだ限(きり)がありませんが、
それら全てを、ひっくるめたものが、「私の神」なのです。
* * * * *
ところで、
「私の神」は、信仰の有無に関係なく存在します。
つまり「私の神」は、それを信じようが、信じまいが、そんなこと
には一切関係なく、厳然と存在するのです。
なぜなら、
「この世を、この様にしているもの」が存在しなかったら、
この世が、この様に存在し、このような状態で、この様な状況に
なっているはずがないからです。
たとえば・・・
「ビッグバンを起こさせたもの」が存在しなかったら、この宇宙は
存在しなかったはずです。
「地球を作ったもの」が存在しなかったら、地球は存在しなかった
はずです。
「生命を誕生させたもの」が存在しなかったら、この地球に生命は
存在しなかったはずです。
「生命を人間にまで進化させたもの」が存在しなかったら、人間は
存在しなかったはずです。
ゆえに、
この世(人間や人類社会、生命、生態系、地球、太陽系や銀河系
を含めた宇宙全体)が、
この様に存在し、このような状態で、この様な状況になっている
以上は、
「この世を、この様にしているもの」つまり「私の神」が、絶対に存在
しなければならないのです。
* * * * *
以上、
「私の神」とは、「この世を、この様にしているもの」である。
と、定義しました。
この定義によって、
「神は存在する!」とか、「神など存在しない!とか、
「神を信じる!」とか、「神なんか信じない!」とか、
そのような議論や、言い争いを、無くすることができます。
また、
「神」ではなく、「私の神」とすることによって、
ある特定の集団ではなく、もはや一人ひとりの個人が、それぞれ
の神観(神のイメージ)を持ち、それを認め合えるようにすること。
これによって、
「我々の信じる神のみが絶対に正しい!」とか、「あなたたちが信じ
ているのは神でなく悪魔だ!」
などというような対立や衝突、つまり宗教における最も悪いところを、
無くすることができると私は考えています。
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