般若心経について 1
2021年11月28日 寺岡克哉
前回は、尼僧(にそう)の瀬戸内寂聴さんのことについて書きま
したので、
今回は仏教に関連して、「般若心経」について書かいてみたい
と思います。
じつは、私にとって般若心経は、
仏壇の前で毎日唱(とな)えるほど、とても身近なものになって
いるのです。
* * * * *
さっそくですが、
般若心経(般若波羅蜜多心経)と、そのサンスクリット原典から
の翻訳を、以下に紹介します。
-----------------------------
般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)
觀自在菩薩(かんじざいぼさつ)。行深般若波羅蜜多時(ぎょう
じんはんにゃはらみったじ)。照見五蘊皆空(しょうけんごおん
かいくう)。度一切苦厄(どいっさいくやく)。
舎利子(しゃりし)。色不異空(しきふいくう)。空不異色(くうふい
しき)。色卽是空(しきそくぜくう)。空卽是色(くうそくぜしき)。受想
行識亦復如是(じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)。
舎利子(しゃりし)。是諸法空相(ぜしょほうくうそう)。不生不滅
(ふしょうふめつ)。不垢不浄(ふくふじょう)。不增不減(ふぞうふ
げん)。
是故空中(ぜこくうちゅう)。無色(むしき)。無受想行識(むじゅ
そうぎょうしき)。無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)。無色
聲香味觸法(むしきしょうこうみそくほう)。無眼界(むげんかい)。
乃至無意識界(ないしむいしきかい)。無無明(むむみょう)。亦無
無明盡(やくむむみょうじん。乃至無老死(ないしむろうし)。亦無
老死盡(やくむろうしじん)。無苦集滅道(むくしゅうめつどう)。無智
亦無徳(むちやくむとく)。
以無所得故(いむしょとくこ)。菩提薩埵(ぼだいさった)。依般若
波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)。心無罣礙(しんむけいげ)。
無罣礙故(むけいげこ)。無有恐怖(むうくふ)。遠離一切顚倒夢想
(おんりいっさいてんどうむそう)。究竟涅槃(くきょうねはん)。
三世諸佛(さんぜしょぶつ)。依般若波羅蜜多故(えはんにゃはら
みったこ)。得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさん
ぼだい)。
故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみった)。是大神咒(ぜだい
じんしゅ)。是大明咒(ぜだいみゅうしゅ)。是無上咒(ぜむじょうしゅ)。
是無等等咒(ぜむとうどうしゅ)。能除一切苦(のうじょいっさいく)。
眞実不虡故(しんじつふここ)。
説般若波羅蜜多咒(せつはんにゃはらみったしゅ)。即説咒日(そ
くせつしゅわつ) 揭帝(ぎゃてい) 揭帝(ぎゃてい) 般羅揭帝(はら
ぎゃてい) 般羅僧揭帝(はらそうぎゃてい) 菩提僧莎訶(ぼじそわ
か)
般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)
サンスクリット原典からの翻訳
全知者である覚った人に礼したてまつる。
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していた
ときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。
しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体
のないものであると見抜いたのであった。
シャーリプトラよ、この世においては、物質的現象には実体がない
のであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、
物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのでは
ない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、
実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象
なのである。これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、す
べて実体がないのである。
シャーリプトラよ。この世においては、すべての存在するものには
実体がないという特性がある。生じたということもなく、滅したというこ
ともなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るという
こともなく、増すということもない。
(それゆえに、シャーリプトラよ)、実体がないという立場においては、
物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。
眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちも
なく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象も
ない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)
迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと
死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの
原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることも
なく、得るところもない。
それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に
安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがない
から、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っている
のである。
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の
完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大い
なるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを
鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。
その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。ガテー
ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、
さとりよ、幸あれ。)
ここに、智慧の完成の心が終わった。
(般若心経・金剛般若経 中村元・紀野一義 訳注 岩波文庫より)
-----------------------------
* * * * *
上を見て頂ければ分かると思いますが、
お経というのは、悪霊を退散させるための呪文や、死者の霊を
成仏させるための呪文などではありません。
そうではなく、
仏教の教え(仏教思想)を、「説話」としてまとめたものなのです。
なので実は、
「般若心経」も、死者の霊を慰(なぐさ)めるというような、 心霊的
なものとは一切関係がありません。
まず第一に、そのことを皆さんに知って頂きたいと思った次第です。
目次へ トップページへ