水車小屋の男
                            2021年11月7日 寺岡克哉


 前回で私は、

 いくら素粒子のことを研究しても、原子核のことさえも分からない
という教授の話を聞いて納得し、

 「素粒子帝国主義の崩壊」を体験したことについて書きました。



 しかしながら、

 「素粒子のことが分かれば、この世の全てが分かる!」という
考え方は、

 私が中学生のころから持っていた、いわば信念のようなもので
した。



 なので、その考え方を簡単に変えられるわけがなく、

 ただ教授の話を聞いただけで、「素粒子帝国主義の崩壊」を
受け入れた訳ではありません。



 じつは、

 私が愛読しているトルストイの人生論に、「水車小屋の男」に
ついての話が書かれており、

 その話を前もって何回も読んでいたこともあって、「素粒子帝国
主義の崩壊」を、けっこう素直に受け入れることができたのです。


            * * * * *


 さて、

 「水車小屋の男」の話は、トルストイの人生論の序に書かれて
いますが、それは以下のようなものです。

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    人生論(トルストイ著 原卓也訳) 序からの抜粋

 水車が唯一の生活手段であるような人間を想像してみよう。この男
は、父も祖父も粉ひきだったので、粉を上手にひくには、水車をどう
扱えばよいのかを、あらゆる部分にわたって、ききおぼえでちゃんと
承知している。この男は、機械のことはわからぬながら、製粉が手際
よく上手にゆくように、水車のあらゆる部分をできるだけ調整してきた
し、生活を立て、口を糊(のり)してきたのである。

 ところが、この男がたまたま水車の構造について考えたり、機械に
ついてのなにやら怪しげな解釈を耳にしたりすることがあって、水車
がどうしてまわるのかを観察するようになった。

 そして、心棒のネジからひき臼(うす)に、ひき臼から心棒に、心棒
から車に、車から水除(よ)けに、堤(つつみ)に、水にと観察をすす
め、問題はすべて堤と川にあることをはっきり理解するにいたった。
男はこの発見に喜んだあまり、以前のように、出てくる粉の質をくらべ
ながら臼を下げたり上げたり、鍛(きた)えたり、ベルトを張ったりゆる
めたりする代わりに、川を研究するようになった。そのため、彼の水車
はすっかり調子が狂ってしまった。粉ひきは、見当はずれのことをして
いると言われるようになった。彼は議論し、なおも川についての考察
をつづけた、こうして、永い間ひたすらその研究をつづけ、思考方法
の誤りを指摘してくれた人たちとむきになって大いに議論した結果、
しまいには当人まで、川がすなわち水車そのものであると確信するに
いたった。

 彼の考えを誤りとするすべての論証に対して、このような粉ひきは
こう答えるだろう。どんな水車だって水がなければ粉をひけない、した
がって、水車を知るには、どうやって水を引くかを知らなければならな
いし、水流の力や、その力がどこからわくかを知らなければならない、
したがって、水車を知るには川を知らなければならないのだ、と。

 論理的には、粉ひきのこの考察には反駁(はんばく)しえない。粉ひ
きの迷いをさましてやる唯一の方法は、どの考察においても大切なの
は、考察そのものよりむしろ、その考察の占める地位であること、つま
り、みのり多い考え方をするためには、何を先に考え、何をあとで考え
るべきかをわきまえねばならぬということを教えてやることだ。また、
理性的な活動が不合理な活動と区別されるのは、もっぱら、理性的な
活動は、どの考察が一番目で、二番目、三番目、十番目はどれである
べきかといった具合に、重要さの順に応じていろいろの考察を配置す
る点であることも、教えてやらねばならない。ところが、不合理な活動
は、この順序を持たない考察なのである。さらに、この順序の決定は、
偶然ではなく、考察の行われる目的によるのだということも、教えてや
る必要がある。

 すべての考察の目的がこの順序をも決定するのであり、個々の考察
が理性的なものになるためには、それらがこの順序に従って配置され
なければならない。

 そして、すべての考察に共通する目的に結びつかぬ考察は、たとえ
どんなに論理的なものであろうと、不合理なのである。

 粉ひきの目的は、うまく粉がひけることである。だから、彼がそれを
見落とさぬかぎり、臼や、堤や、川についての考察の、明白な順序や
一貫性は、その目的が決めてくれるであろう。

 考察の目的に対するこうした態度がないので、粉ひきの考察は、た
とえどんなに立派であり論理的であろうと、それ自体、誤ったものとな
るだろうし、何より、むなしいものとなるだろう。
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 以上のような「水車小屋の男」の話を、私は前もって何回も読んで
いたので、

 教授の話を素直に受け入れる下地(したじ)が、すでに出来上がっ
ていました。

 そのため、

 「素粒子帝国主義」に執着することなく、それを捨て去ることが
出来たのです。


              * * * * *


 ところで、

 上で紹介した「水車小屋の男についての話」を、短く一文でまと
めると、

 「目的を見失った考察は、いくら論理的に正しくても、無意味で
ある!」


 と、いうことになるでしょう。



 そしてこれは、

 いろいろな物事を考察したり、人と議論をしたり、文章を書いたり
する上で、

 ほんとうに、ものすごく大切なことだと思います。



 しかも世の中には、

 話の部分部分のつながりにのみ、論理的な正しさを装(よそお)
いながら、

 全体としての議論を、だんだん本来の目的から逸(そ)らせて、
議論そのものを無意味にするような話術、

 (たとえば、議論のための議論を延々と繰りかえして、いつまで
経っても結論が得られないようにする話術)

 が、横行(おうこう)しているように思えます。



 そのため、

 「水車小屋の男の話」の教訓は、それが書かれてから133年経っ
た現代において、なおさら大切になっています。

 当然ならが私も、いろいろな考察をして文章(エッセイ)を書くときに、

 結論を見失って、文章全体が無意味なものにならないよう、いつも
気をつけている次第です。



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