心の宝・死は苦でない!
2021年10月17日 寺岡克哉
「死は苦でない!」
このことを、自分なりに発見できたこと。
そして、「死は苦でない!」ということに対して、
私が人生を経(へ)るごとに、ますます確信を深めていること。
これらのことは、私にとって「心の宝」となっています。
* * * * *
ところで、
「死は苦でない!」ということに対して、確信を持つことができる
根拠、あるいは確信を深めることができる根拠は、
これまでの58年間にわたる私の人生で、以下の4つが得られ
ています。
まず1つ目の根拠は、
本人の実感として、「死後」というのは、「生まれる前」と、まった
く同じだと考えられることです。
なぜ、そのように考えられるかと言えば、
「生まれる前」と「死後」では、「自分の肉体が存在しない」という
意味で、物理的・科学的には全く同じ状態だからです。
この考え方を認めると、
私が「生まれる前」には、何億年もの時間が存在していたはず
ですが、
しかし私は、そのような長い時間を、たったの1秒にも感じてい
ませんでした。
これと同じように、私の「死後」にも、何億年という時間が存在す
るはずですが、
しかし私は、そのように長い時間を、たったの1秒にも感じること
ができないと思います。
つまり「死後」においては、苦を感じている暇(ひま)も時間も、
まったく存在しないのです。
以上のような、私なりの発見によって、
「死は苦でない!」というか、「死は苦であり得ない!」という確信
を、まず最初に持つことができたのでした。
つぎに2つ目の根拠ですが、
私たちが毎日経験する「熟睡」の状態もまた、時間を1秒にも感じ
ることができないので、本人の実感としては、「死後」と同じだという
ことです。
つまり私たちは、毎日のように「死の実感」を体験している訳です。
そして例えば、
もしも私が熟睡中に、頭をピストルで撃たれて即死させられたと
しても、やはり私は、実感として何の変化も感じることができないと
思います。
ゆえに「死後」と「熟睡」は、(肉体が死んでいるか、生きているか
の違いはありますが)本人の実感として、まったく同じだと言えるの
です。
この考察によって、
私は、「死は苦でない!」という確信を、深めることができました。
そして3つ目の根拠は、
現代では医療技術が進んでおり、「心肺停止の状態」から意識を
取りもどした人がいることです。
私が以前に、父から聞いた話ですが、
父の知り合いが心肺停止の状態になり、病院の集中治療室で
意識を取りもどしました。
その人の話によると、
自宅でとつぜん意識が朦朧(もうろう)となり、家族に助けを求め
ようとしたが声を出すことができず、気が付いたら集中治療室の
ベッドに寝ていたそうです。
もしも心肺停止のまま、病院に運ばれるのが遅れたら、
実感としては1秒の時間も感じることなく、そのまま確実に死んで
いたでしょう。
私は、この話を聞くことによって、
「死は苦でない!」という確信を、さらに深めることができたのです。
最後に4つ目の根拠は、
私は以前に、心臓発作が起こり、救急車で病院に運ばれたこと
があるのですが、そのときの治療で「麻酔」の経験をしたことです。
それまで私は、睡眠以外で、「自分の意識が無くなる」という経験
をしたことがなかったので、
麻酔が効いてくるとき、どのように自分の意識が無くなって行くの
か、ものすごく興味がありました。
それで、意識が無くなっていく過程を、しっかりと把握(はあく)し
たいと思い、
いざ麻酔薬が注入されるときに、私は目をカッと開き、ものすごく
意識を集中させて、待ち構(かま)えていました。
ところが、「だんだん眠くなる」とか、「だんだん目の前が暗くなる」
とか、そのような感覚を、まったく感じることが出来ませんでした。
つまり、麻酔を注入している医師の姿を、目をカッと開いて見て
いたら、その一瞬後に、眠りから覚めたのです。
自分が眠っていたことには、まったく気づくことが出来ませんで
した。
もしも私が、麻酔で眠っている間に、
頭をピストルで撃たれて即死させられたとしても、やはり私は、
実感として何の変化も感じることができないと思います。
この麻酔の経験によって、
私は、「死は苦でない!」という確信を、さらにもっと深めること
ができたのです。
* * * * *
以上、これまでの人生で得られた4つの根拠により、
私は、「死は苦でない!」という確信をもち、その確信をどんどん
深めてきました。
そうすると、そのことによって、
自分が年老いて行き、体力が落ちて、だんだん死が近づいて
きても、
必要以上に恐れることが無くなりました。
また、
かつて私は、いまは亡き母や父の介護をしていたので、
癌(がん)が進行して、だんだん体が弱っていく母や父の姿を、
毎日々々、目の前で見ることになりました。
そして、いよいよ母や父が死を迎えたとき、
母や父が「苦しみから解放された」ことに、私は確信をもつこと
ができました。
そして悲しみよりは、なにか「ホッ」とした安らぎを感じることが
できたのです。
さらにまた、
子供が虐待されて殺されるという、目を覆(おお)いたくなるよう
な事件が、まったく後を絶ちませんが、
「亡くなった子供は、ずっと続いていた長い苦しみから、すでに
解放されているのだ!」という確信が持てると、
「何ともやりきれない、吐き気がしそうな怒りや悲しみ」を、和(や
わ)らげることができるのです。
たしかに、人によっては、
「死は苦でない!」という確信を持つことで、
「自殺を恐く感じない」とか、「殺人を悪と感じない」というような、
ものすごく悪い弊害(へいがい)が生ずる可能性も、おそらくゼロ
ではないでしょう。
が、しかし、私にとっては、
「死は苦でない!」という確信をもち、その確信を深めることで、
老いや病気などによる死の恐怖、肉親の死による悲しみ、理不尽
な殺人への怒りなどに対して、
心の安定と平和を保(たも)つことができ、まさに「心の宝」となって
いるのです。
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