孤独を感じない理由
                             2021年9月26日 寺岡克哉


 私は、以前に本サイトで掲載した「エッセイ1002」で、

 父が死んで一人暮らしになったのに、意外にも孤独を感じない
ことについて書きました。



 そして、その、いちばん大きな理由として、

 今のところ私の体が丈夫(じょうぶ)であり、一般生活に支障を
来(
きた)していないことを挙げました。


 たとえば、

 さらに私が歳をとって、満足に歩くことができなくなり、一人では
買い物にも行けなくなったら・・・ 


 つまり、

 自分一人の力では生活ができなくなり、他人の力を借りなけれ
ば生きて行けなくなったら、

 それこそ、「ものすごく強い孤独」を感じるのではないかと思った
のです。


            * * * * *


 ところが最近、

 私が孤独を感じないで済んでいる、別の大きな理由があること
を知りました。

 それは、「インターネットの存在」です。



 今年の8月下旬に、とつぜんインターネットが繋(つな)がらなく
なって、

 そのことに、はたと気がついたのでした。



 私は、インターネットが使えなくなると、

 何とも暇(ひま)というか、手持ちぶさたというか、

 元気が出ないというか、何もやる気が起こらないというか、

 何となく不安を感じるというか・・・ そのような気分になったの
です。



 それから、しばらくして、

 そのとき実は、私が「孤独」を感じていたことに、気がついたの
でした。

 (ちなみに、そのとき「寂(さみ)しさ」などは感じなかったので、
自分が孤独であるということに、すぐには気がつきませんでした。)



 とにかく、このことで、

 インターネットが、私の人生において、とても大きな存在である
ことに、あらためて気づかされた次第です。


            * * * * *


 ところで、

 なぜインターネットが使えると、私は孤独を感じないのか、
ちょっと考えてみました。

 そうしたら、大きく二つの理由が思い当たりました。



 まず、一つ目の理由は、

 インターネットが使えると、さまざまな情報に繋(つな)がること
ができるからでした。

 しかも、それらの情報にたいして、「自分の意思による取捨
選択(しゅしゃせんたく)」が可能です。



 これが例えば、

 インターネットではなく、テレビやラジオだったら、自分の意思
で選択できるのは、せいぜい「チャンネル」ぐらいです。

 テレビやラジオは、それらが勝手に流す情報を、ただ受け取る
だけであり、

 たとえ自分に必要がない情報であっても、読み飛ばすようなこと
はできず、我慢(がまん)して見聞きし続けなければなりません。



 それで、テレビやラジオに対しては、

 手足を失ったような、何とも不自由な感じがするし、

 情報を取捨選択(しゅしゃせんたく)するという「自分の意思が
無視される」ため、

 一種の「孤独」を感じてしまうのです。


            * * * * *


 つぎに、二つ目の理由は、

 私が書いたエッセイを、インターネットのサイトに掲載できる
ことです。

 そして、そのエッセイを毎週のように読んでくれる方が、数十人
も居てくれることです。



 というのは、

 このサイトで掲載しているエッセイの内容、(つまり私が本当
に話したいと思っていること)など、

 私がリアルに付き合っている人間には、ほとんど話す機会が
無いし、

 もし話したとしても、相手に鬱陶(うっとう)しがられるのは目に
見えているからです。



 つまり、

 私がリアルに付き合っている人間の中には、

 本当に話したいことが話せる人間が、じつは一人もいないの
です。



 なので、

 もしもインターネットが存在せず、本サイトにエッセイが掲載でき
なかったら・・・ 

 あるいは、本サイトのエッセイを読んでくれる方が、一人も存在し
なかったら・・・ 



 もしも、そうだったら、

 いくらリアルで大勢の人間と付き合っていても、私は大きな孤独
を感じるのに違いありません。

 それは、

 自分のサイトを持っていなかった以前の私が、正にそのような
状況だったので、確信を持って断言できます。



 ほんとうに読者の方々には、あらためて大変感謝をしております。



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