自我意識は生命の本質でない
                                   2004年1月25日 寺岡克哉


 自我意識とは、ふつうに誰もが持っている「自分の意識」のことです。

 「私は生きている」とか、「私は存在している」と感じる意識のことです。
 また、「私は、私の他に存在するはずがなく、私はこの世で唯一無二の存在であ
る」と、感じるのも自我意識です。
 そして、「今の私も10年前の私も、私は私で同じ私であり、10年前の私が他の
人間であるはずがない」と、感じるのも自我意識です。
 あるいは、「朝だから起きよう」とか「ご飯を食べよう」とか、「学校や会社へ行こう」
というように自分の意志や行動を決定し、それを実行するのも自我意識です。
 (この「自我意識」については、エッセイ42で詳しく考察していますので、是非そち
らも見て下さい。エッセイ42は、我ながら面白い考察だと自分では思っています。)

 自分の「自我意識」は、この世で自分だけにしか存在しない唯一無二のものです。
 だから、とても価値があり、とても貴重で大切なものです。
 しかしながら私は、「自分の自我意識が、自分の生命の本質ではない」と、
考えています。

 この大胆な考えは、実は自分でもまだ半信半疑で、心の底から確信している訳
ではありません。しかしだんだんと、その確信が強くなって来ているのも事実なの
です。

 一見すると確かに、自分の自我意識が存在することは、「自分が生きていること」
を決定的に確信させるように思えます。
 しかし逆に、自分が思ったり考えたりしているだけでは(つまり自我意識が存在
しているだけでは)、「私は生きている!」という実感が、持てないのではないでしょ
うか?
 自我意識によって何らかの行為(思考や行動)を行ない、それが他の生命に何ら
かの「影響」を与えるからこそ、「私は生きている
」という実感が起こるのではない
でしょうか?

 自我意識だけしか存在しない状態というのは、まるで幽霊のようなものです。しか
し幽霊でさえ、その姿が人に見られたり、その霊が人間に取り憑いたりしなければ
(つまり他の生命に何の影響も与えなければ)、それは存在しないのも同じです。

 あるいは、例えば自分だけが一人ぼっちで、他の生命がまったく存在しない世界
にいるとします。そのような状況になったら、いくら自分の自我意識が存在していて
も、「私は生きている!」という実感が、持てないのではないでしょうか?

 またあるいは、自分の周りにたくさんの生命が存在していても、それらに自分の姿
を見られることもなく、自分の出す声や音を聞かれることもなく、触ることも、棒でつ
つくことも、物を投げつけることもできなければ、「私は生きている!」という実感が
持てないのではないでしょうか?

 だから私は、自分の自我意識の存在することが、「自分が生きていること」の本質
ではなく、自分が他の生命に「影響」を与えることが、「自分が生きていること」の本
質だと思うわけです。
 つまり、自分の自我意識が「自分の生命の本質」なのではなく、自分が他の生命に
与える「影響」こそが、「自分の生命の本質」だと思うのです。

 ところで、私の自我意識はいづれ必ず消滅します。しかし、私が他の生命に与え
る「影響」は、たくさんの生命に波及し、未来永劫に生きつづけます。
 つまり「私の生命」の大部分は、私の自我意識の外にあるのです。逆に言うと、私
の自我意識は「私の生命」のほんの一部に過ぎないのです。

 自分の自我意識が「自分の生命の本質」ではなく、自分が他の生命に与える
「影響」こそが、「自分の生命の本質」である。

 このことを心の底から理解し、納得することができれば、私が死んでも「私の生命」
は消滅しなくなるのです。

 自分の「自我意識」は、この世で唯一無二のものであり、とても大切なものです。
 しかしそれさえも、「自分の生命」の全体から見れば、ほんの一部に過ぎないの
です。
 「自分の生命」とは、自分の自我意識だけに閉じているものではなく、もっと広大
で無限のものだと私は思うのです。



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