生命を肯定するためには 2002年4月27日 寺岡克哉
生命を肯定するためには、「生命の否定」を解消して行かなければなり
ません。
「生命の否定」を野放しにし、のさばらせて置くと、いつの間にか「生命の否
定」が、心の中に、はびこって来るからです。
「生命の否定」を解消するためには、「生命の否定」が起こる原因やメカニズ
ムを解明する必要があります。「生命の否定」が起こる根本を改善しない限り、
いつまでたっても「生命の否定」が湧いて出て来るからです。
だから生命を肯定するためには、「生命の否定」に対する考察がどうしても
必要なのです。
よく、生きるための元気を出す手段として、
「悪いこと、不安になることは考えるな!」
「肯定的な思考だけをせよ!」
というのがあります。これは、実際に行う「実践処方」としては正しいし、私もよ
くそうします。しかし「生命の否定」が起こる原因やメカニズムを解明しない限
り、根本的な解決とは言えません。
私の目指す「生命の肯定」とは、悲観論に目を閉じてこれを無視し、ただひた
すら楽観論を吹聴するものではありません。
苦しみ、憎しみ、孤独、自己否定、エゴイズム、闘争、死・・・これら生命のネガ
ティブな側面を見つめた上で、それでもなおかつ、「生きることは素晴らしい!」、
「生命の存在は素晴らしい!」と、納得できるような、生命思想の構築を目指し
ているのです。
そのためには、これら生命のネガティブな側面を分析し、それらが存在する理
由を一つひとつ解明して行かなければなりません。
例えば「苦しみ」の存在は、生命の否定が起こる原因のように思われます。
しかしながら、「生命の肯定に必要な”苦しみ”」というのも存在するのです。
その一例として、怪我や病気の苦しみがあります。生命を肯定するためには、
まず体が健康でなければなりません。(体が健康でなくても、強靭な精神力を
持ってして、生命を肯定できる人も中にはいます。しかし体が健康であった方が
望ましいのは当然です。)
怪我や病気の苦しみは、体の健康を維持するために必要なものです。怪我
や病気をしても、痛みや苦しみを全く感じなければ、それを直そうとせずに最
悪の場合は死んでしまうからです。
死んでしまっては、生命を肯定するどころではありません。だから怪我や病気
の苦しみは、生命を肯定し、より良く生きるために必要なものなのです。
しかしながら、病気を苦にしての自殺も多いそうです。この場合は、病気の苦
しみが「生命の否定(生きる意欲の喪失)」の原因になっているのは確かです。
しかしだからといって、「怪我や病気の苦しみが存在するから、生きるのは無意
味だし、生命など始めから存在しない方が良かったのだ!」とは、一義的に結
論できないのです。
不治の病、しかも苦しみが長く続く病気ならば、「生命の否定」が起こっても
仕方がないかも知れません。しかし大多数の場合は、怪我や病気の苦しみが
存在することによって、健康な生活が維持できるのです。だから怪我や病気
の苦しみが存在することを、「生命の否定」の根拠とするのは間違いなのです。
怪我や病気の苦しみを感じることができるのは、生命を肯定し、より良く
生きるために必要な能力なのです。
このように、一見すれば「生命の否定」が起こる原因であっても、その存在理
由を一つひとつ解明して行けば、生命の否定を解消できる可能性が見えて来
ます。
確かに、怪我や病気の苦しみそのものは、それが治癒しなければ解消でき
ません。しかしながら、
「生命には怪我や病気の苦しみが必ず存在する。そして事実、怪我や病気
に苦しんでいる人は世界中にたくさんいるし、その苦しみを毎日のように見せ
つけられている。だから生命の存在は苦しみであるとしか思えないし、こんな
生命など始めから存在しない方が良かったのだ!」
と、言うような「生命の否定による苦悩」は解消できるのです。
「生命の否定」に対する考察は、わたし個人としてはとても嫌なことですし、
皆さんが読んでも嫌な気分になるかと思います。
しかし、「生命の否定」が起こる原因やメカニズムの分析に目を閉じていて
は、誤魔化しでない「真の生命の肯定」にはたどりつけないと、私は考えてい
ます。
今後、苦しみ、憎しみ、欲望、闘争など、生命の嫌な面に対する考察を行う
こともありますが、我慢しておつき合い下さい。
「生命の肯定」のためには、「生命の否定」に対する考察が、どうしても必要
なのですから。
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