自己否定からの解放    2002年3月20日 寺岡克哉


 生きるのが、辛くて辛くてどうしようもない人。
 胸がしめつけられ、息がつまり、はき気がするほど、生きることが苦しい人・・・。

 「生きていたくない・・・ 」
 「死んで楽になりたい・・・ 」
 「なぜ、こんな思いをしてまで生きなければならない?」
 「なぜ死んではいけない?」
 「生きるのなんか、もうたくさんだ!」

 いまの社会では、このような思いに苦しんでいる人が、とても多いのではない
でしょうか? それは、自殺をする人が増えていることからも、明らかなように
思えます。
 このように、生きることを否定し、自分の存在価値を否定してしまうことを、私は
「自己否定」と呼んでいます。

 私も以前は、自己否定に取りつかれて苦しんでいました。
 自殺を決行するほどの勇気はありませんでしたが、「死んで楽になりたい・・・ 」
と、思ったことは何度もありました。本当に、毎日が地獄のようでした。
 そのときの私の気持ちを、今ここで思い出してみると、だいたい次のようだった
と思います。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ・・・私には、生きる価値がないし、生きる資格もありません。
 生きる楽しみもないし、生きる希望も、生きる目的もありません。
 私が生きていることは、只々みんなに迷惑をかけるだけで、たいへん申し訳なく
思っています。
 自分でもしっかりしなければと思うのですが、どうしてもだめなのです。
 生きることが、辛くて、辛くて、どうしようもありません。
 毎日が、まるで拷問のようです。
 このまま生きているより、一思いに死んだ方が余程ましです。
 なぜなら、その方が世の中のためだと思うし、自分も楽になれるから・・・。
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 このように「自己否定」は、自分の存在を無価値だと感じ、自分自身を責めつづけ
ます。そして毎日のように続く、この地獄のような苦しみに耐えられなくなり、生きる
意欲を失ってしまうのです。

 いまの社会がこんなに「生き苦しい」のは、そのような「自己否定」が、世の中に
蔓延しているからではないでしょうか?
 いまの社会に本当に必要なのは、「自己否定からの解放」ではないでしょうか?
 かつて自己否定に苦しんだ経験から、私はそのように強く感じてしまうのです。

                * * * * *

 ところで、自己否定から解放されるために、いちばん必要なことは何でしょう
か?
 それを私は、自己否定に苦しみながら色々と考えつづけました。そして結局、
 自分は、「何かの存在」に受け入れられている。
 自分は、「何かの存在」から生きることが認められている。
 自分は、「何かの存在」によって、生きることが許されている。
 だから自分は、このまま生きていて良いのだ!

と、心の底から実感できることが、いちばんに必要なのだと思いました。

 この「何かの存在」というのは、親や家族、友人、恋人であったり、あるいは
学校や会社や世間であったりします。
 そして、
 親に見捨てられたり・・・
 友人から仲間はずれにされたり・・・
 失恋したり・・・
 たいせつな家族と死に別れたり・・・
 不登校になって学校へ行けなくなったり・・・
 リストラで会社を追われたり・・・
 世間から「のけ者」にされたり・・・
 そのようなことが起これば、この「何かの存在」という部分を失って、自己否定に
取りつかれてしまうのです。

 人間は、「何かの存在」に自分が受け入れられていると、心の底から実感できて
はじめて、本当に安心して生きることが出来るのです。
 この「何かの存在」というのは、自分の存在を認めてくれるもの、自分の価値を
認めてくれるもの、自分が生きることを認めてくれるものです。
 それを私は、「自己存在の拠り所」と呼びたいと思います。

 ところで、この「自己存在の拠り所」を、他人(たとえ親といえども、自分以外の
人間はすべて他人です)や会社にしていたのでは、とても不安でたまりません。
 なぜなら他人や会社は、いつでも自分を見捨てる恐れがあるからです。
 そしてさらには、自分が見捨てられなかった場合でも、死別や会社の倒産など
で、「自己存在の拠り所」を失う危険がいつもあるからです。
 事実、現代人の心の不安は、すべてこれが原因であるとさえ言えるのではない
でしょうか?

                * * * * *

 ところで、「自己存在の拠り所」を、他人や会社などの不安定なものではなく、
「もっと絶対で確実なものにしたい!」と考えるのは、人間として当然のことです。
 実は、そのような悩みは現代にかぎらず、大昔からありました。だから人類は、
「神」を考え出したのです。
 「神は絶対」であり、神を心から信じれば、たしかに自己否定から永遠に解放さ
れます。「自己存在の拠り所」として、これ以上に絶対で確実なものはありません。
 しかし、神は見ることも触ることもできないものです。だから現代人に、「神を信じ
ろ!」といきなり言っても、なかなか出来ないのは当然です。

 また、神は見ることも触ることもできないので、神の存在を一心に信じること、つま
り「信仰」によってしか、神の存在を実感することができません。ここにも大きな問題
があります。
 なぜなら、信仰はえてして盲目的になりやすく、「盲目的な信仰」には危険が伴う
からです。それは、現代の宗教が抱えているさまざまな問題(宗教戦争や霊感
商法、カルト集団など)を見れば明らかでしょう。

 他人や会社などより、絶対で確実な「自己存在の拠り所」。
 しかも、神のように見たり触ったりできないものでなく、見ることも触ることもでき
る「自己存在の拠り所」。
 それが、いまの社会では強く求められていると思います。

                 * * * * *

 私は、そのような「自己存在の拠り所」として、「大生命」というものを考えてい
ます。
 大生命を一言でいえば、「地球のすべての生命を含む、地球の生態系」
です

 突然にこう言えば、みなさんは戸惑われるかも知れません。
 そして、「なぜ地球の生態系が、自己存在の拠り所なのか?」という疑問が起こ
り、「まるで新興宗教のようだ!」と、怪しく思われるかも知れません。

 しかし最近は、地球環境やエコロジー(生態学)の話が、世間に広く知られるよう
になりました。そして、地球環境や生態系のバランスが、人類の幸福にとって大切
であると、多くの人々に理解されています。
 だから「大生命」の考え方は、そんなに怪しいものではなく、みなさんにも納得し
て頂けるものと思います。
 「大生命」の説明と、大生命が「自己存在の拠り所」となる理由を、これからお話し
て行きたいと思います。もうすこし我慢して、おつき合いください。

 「大生命」は、細菌、プランクトン、昆虫、植物、動物、人間を含めた、地球のすべ
ての生命から出来ています。
 そして、これらすべての生命は、いろいろな関係で一つにつながり、
「一つの生命維持システム」
を作っています。この生命維持システムが「大生命」
なのです。

 たとえば植物は、二酸化炭素から酸素を作ります。逆に動物は、酸素を吸って
二酸化炭素をだします。そして動物のだした二酸化炭素は、ふたたび植物に使わ
れます。このように、植物と動物はつながっています。

 また「食物連鎖」では、植物が草食動物に食べられ、草食動物が肉食動物に
食べられます。また逆に、動物のフンや死体は、虫や細菌によって分解され、
植物の肥料になります。このように食物連鎖は、すべての生命を一つに結びつけ
ているのです。

 また「共生関係」では、植物が昆虫に蜜をあたえ、その代わりに昆虫が植物の
花粉を運ぶことなどがあります。植物といえども、単独では生きて行けません。
昆虫が存在することにより、植物は繁殖が可能になるのです。

 このように、地球のすべての生命がつながり、「一つの生命維持システム」を作っ
ているから、個々の生命は生きて行けるのです。この生命維持システム、つまり
「大生命」が存在しなければ、個々の生命は絶対に生きられません。
 そしてこれは、人間についても言えることです。もちろん、あなたについてもです。

 あなたは、決して、一人だけで生きているのではありません。
 あなたは、他のたくさんの生命に支えられているから、生きることが出来るの
です。
 「大生命」という生命維持システムに組み込まれ、「大生命」に受け入れられてい
るから、あなたは生きられるのです。
 「大生命」によって生きることが認められ、生きることを許されているから、あなた
は生きることが出来るのです。
 だから「大生命」は、「自己存在の拠り所」となるのです。

 たとえば今ここで、あなたは呼吸をしていますが、あなたが窒息をしないのは大生
命が酸素をつくっているからです。
 酸素をつくっているのは植物ですが、植物といえども単独では生きて行けません。
微生物や虫や動物を含めた「生命維持システム」に組み込まれているから、植物も
生きて行けるのです。だから、酸素をつくっているのは「大生命」なのです。

 大生命のまったく存在しない場所・・・ それは、たとえば宇宙空間です。
 そのような場所では、あなたは直ぐに死んでしまいます。たとえ10分といえども、
生きることはできません。
 だから、今ここであなたが呼吸できるというその事実。それがまさに、大生命に
受け入れられ、生きることが認められ、生きることが許されていることの、絶対的な
証拠なのです。

 今ここで、あなたは、すぐそこの草木が10分前に作った酸素を吸っているで
しょう。
 今ここで、あなたは、あの山の森が1日前に作った酸素も吸っているでしょう。
 今ここで、あなたは、南米アマゾンのジャングルが1年前に作った酸素も吸って
いることでしょう。
 今ここで、あなたが呼吸できると言うその事実が、そこの草木にも、山の森にも、
南米のジャングルにも、あなたの命が支えられていると言うことなのです。

 また、あなたは毎日の食事をしていますが、この毎日の食事も大生命が与えてく
れています。米、麦、野菜などの植物、あるいは豚、牛、魚などの動物、これらすべ
てが大生命によって与えられているのです。

 大生命が存在しなければ、あなたは呼吸をすることも、食事をすることも、
絶対にできないのです。

 これはもう、誰がなんと言おうと、絶対に反論のできない事実であり、真実です。
 あなたは、地球のすべての生命に抱かれて生きているのです。
 大生命に抱かれ、受け入れられているから、あなたは生きていられるのです。
 あなたは、大生命によって生きることを認められ、生きることを許されているから、
生きることが出来るのです。
 「大生命」が存在する以上、あなたは生きていて良いのです。
 それで、なにも問題はありません。
 あなたは、何も気にすることなく安心して生きれば、それでまったく良いの
です。


 あなたが生きることを認め、あなたに生きることを許しているのは、あなた自身
でも、親でも、家族でも、恋人でも、友人でも、学校でも、会社でも、世間でもありま
せん。そうではなく、「大生命」なのです。
 また逆に、あなたが今ここで生きているという、まさにその事実が、「大生命」に
受け入れられ、生きることが認められ、生きることが許されている絶対の証拠なの
です。

 「大生命の存在」を実感すれば、多少のいじめに会ったり、リストラに会っても、
「自己存在の拠り所」を失って自己否定に苦しむことが無くなります。
 しかも大生命は、神のように見たり触ったりできないものでなく、地球の生態系
として見ることも触ることもできます。だから大生命を実感するのに、何かを「信仰」
する必要はありません。
 深呼吸を一回するだけで、大生命の存在は実感できます。
 ご飯を一口食べるだけで、大生命の存在は実感できます。
 このように大生命は、いつでも、どこでも、誰にでも、その存在を実感することが
できるのです。

 人間は、「自己否定」にさえ陥らなければ、結構平気で生きられるものです。とくに
日本を含めた先進国ではそうです。発展途上国の難民の子供のような、餓死や
凍死の危機など、日本にはまったく存在しないからです。

 生活が豊かになり、衣食住に困らなくなった現代社会・・・。
 それなのに、人間が依然として不幸になっているのは、自己否定に取りつかれる
からです。そして自己否定に取りつかれるのは、「自己存在の拠り所」を、他人や
会社などの不安定なものにしているからです。
 「自己存在の拠り所」を、もっとしっかりした生命基盤である「大生命」にすれば、
そのような「自己否定の苦しみ」から解放されるのです。


 (このエッセイは、2005年5月8日に書き直しました。)



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